啄木からの手紙
― 明治四十一年一月 ―
 
 


235 一月六日小樽より 吉野章三宛

天下太平の御手紙只今落手、多謝多謝 多謝多謝 八円何十銭かで年を越したのだから昨日の御手紙を見ても、唯観念の眼を堅く堅く閉ぢた計りに候ひし。
  一月六日         石川啄木
 吉野白村様
 


236 一月十八日小樽より 金田一京助宛

御ハガキ拝見せし時の嬉しさ!
天が下家なき放浪の児は北海の天に孤嘯して感慨多少。一家皆無事、京子は五六歩立ちてあるき候、
小生は明日午前九時出発釧路に向ふ、釧路新聞を拡張するためなり、途中帯広を見てゆく、
家族はこゝへ残してゆく、委細は彼地より。今後の宛名は
 釧路国釧路港釧路新聞社内
  一月十八日夜
             小樽花園町 石川啄木
 金田一花明様
 


237 一月十九日小樽より 大島経男宛

御無音の罪は平に御宥免下され度候、過日御ハガキ落手致候時は、久し振の御たより嬉しく/\拝見致候ひしが、私事旧臘師走中頃日報社の方は大我儘を振舞ひて首尾よく退社、我乍ら小気味よく存じ候ひしも、其為め一文なしの正月を迎へ、賀状さへ差上げざりし次第に候、不悪思召下され度候、北海の天地は、どこまでも小説だらけの天地に侯、然処、日報の白石社長より種々交渉あり、同氏の所有なる釧路新聞と申す小新聞、今度普通の新聞とし、総選挙までに六頁にするとの事にて、其大拡張の第一歩として小生に入社し壮んにやつて見てくれとの話あり、田舎は余り感心せず候へども、辞しかねて遂に承諾、家族は当地に残して小生単身、明十九日午前九時小樽発、帯広その他の必要なる場所を一巡して行く事になり候、白石氏と同行に御座候、白石氏は或意味に於て小生などの師事して恥かしからぬ人格と識見とを有し居、仲々痛快な老紳士に御座候、委細は釧路より申上ぐべく候、今後は釧路国釧路新聞社宛に時々御消息御洩し被下度願上候、草々、
  四十一年一月十九日夕
         小樽区花園町畑十四番地 石川啄木
 大島経男様
 


238 一月二十日旭川より 岩崎正宛

昨日小樽発、白石社長氏と共に釧路に向ふ途にあり、
今夜旭川に一泊、昨夜は岩見沢に一夜を明かせり、雪に埋れたる北海道を横断するも亦快なるかな、
  二十日夜
              旭川宮越屋にて 石川啄木
 岩崎正様
 


239 一月二十日旭川より 宮崎大四郎宛

君が三ヶ月日に焼けた旭川!
明朝六時半釧路に向ふ、
  二十日夜
              旭川宮越屋にて 石川啄木
 宮崎大四郎様
 


240 一月二十二日釧路より 宮崎大四郎宛

雪は五寸位しか無いが風の寒い事夥しい、
明日下宿へ移る筈だから委細は其上にて
  二十二日夜
             釧路港釧路新聞社 石川啄木
宮崎大四郎様
 


241 一月三十日釧路より 金田一京助宛

先日はなつかしき御葉書頂戴、尚又小樽の京子の方へも綺麗な絵葉書御恵み被下候由、うれしく/\御礼申上候、あの御葉書は小生が釧路に入りてより始めての東京便りに候ひし、お江戸の春の如月(きさらぎ)は、流石に早や梅の花などチラ/\綻びそめ候ふ由、五日目六日目に着く東京の各新聞見る毎に、そちらの空なつかしく、あの小路を恁(か)う行つてと、大学の通りから赤心館へ参る路をもよく思出し候、御卒業後の事は一向御動静を詳(つまび)らかにせず居候ひしに、新詩社の同人名簿にて初めて大学院に御出の御事承知仕候ひし、零度以下の寒さの国に居て東京の事を思ふは、失意の子が好運の人を思ふと相似たるべき乎、
此釧路が日本地図の如何なる個所にあるかは、よく御存じの御事なるべくと存候、雪に埋れたる北海道を横断して、廿一日夜当地に着し候ひしより、連日の快晴にて雲一つ見ず、北の方平原の上に雄阿寒雌阿寒両山の白装束を眺め侯ふ心地は、駿河台の下宿の窓より富士山を見たると大に趣きを異にし居候、雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(アンカ)(?)を買つて来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし、朝起きて見れば夜具の襟真白になり居り、顔を洗はむとすれば、石鹸箱に手が喰付いて離れぬ事屡々に候、北(キタ)グルと書いて逃ぐると訓む、北へ/\と参り候ふ小生は、取も直さず生活の敗将、否、敗兵にて、青雲の上に居る人の露だに知らぬ夢を、毎夜見居る事に御座候、
渋民の故園の一年有余は、楽しく候ひし、あけて昨年の四月、郷先生としての掉尾の大活動をやり、自ら号令して破天荒な同盟休校を初めた為め、首尾よくも免職となりて一家離散とは、旧道徳の所謂天罰覿面(てきめん)なるべし、五月五日飄然として津軽の海を渡り、臥牛山下に足を留め侯ひしが、三ヶ月許りして漸く一家を再び其地に集め侯ひし、函館はよき所に候ひし哉、青柳町の僑居は永く/\忘られぬ幾多の追憶を残し候、商業会議所の雇、弥生小学校の代用教員、函館日々新聞の遊軍記者、とり/〃\に新しき経験を積み候ひしが、天が堕落せる函館の区民に下し給ひし八月二十五日夜の火ほど凄じくも壮快なりしはなかるべく候、あの大火を見たる人に非ずば、真に人間の言語の不完全なるを知りたりとは申され間敷候、幸にして類焼だけは免れ候ひしも、新聞社もやけ、学校もやけ、又、傍ら経営し居りし月刊雑誌「紅苜蓿」も、秋期特別号の原稿全部印刷所と共に煙となり、再興の見込なくなり候、それにも増して残念なりしは、友人の許にやつて置きし自作の長篇小説一篇、これ又烏有に帰し侯ふ事に候、但し此大火によつて、深沈なる人生の活面目の一端を悟了したると、幾多新しき小説の材料を得たるとは、忘れ難き天の恩恵に御座候、
九月十三日夕、焼跡の星黒き夜風に送られて、翌日札幌に入り、アカシヤの葉にはためく秋風、窓前の芝生に注ぐ秋雨に、云ひがたく珍らかなる「木立の都」の秋を愛で候ひしが、北門新報の校正係は決して愉快なる職業には無之候ひし、居る事僅かに二週日、小樽日報の創業に参加する事となりて、泥深き小樽に入り候ひしが、野口雨情君亦小生と共に三面子たり、十月一日第一回の編輯会議開かれ、同十五日初号十八頁出し候ひしが、何分、寄集り者の事とて、編輯局裡に不穏の空気充ち、所謂新聞記者許り多くて不愉快なりしまゝ、初号発刊以前より主筆排斥運動を起し、其ため野口君真先に敵の鎗玉にあげられて同月末に退杜、アトは小生唯一人にて奮闘又奮闘、十一月末までには最初八人なりし記者中主筆以下六人迄遂々断頭台に上せ、新人物を入れ候ひしが、寝食を忘れて毎日十五時間位も社のために働き候事、日報社最初の三面主任が功労亦多大なるものと申すべきか、呵々、十二月中旬に至り、最後の根本的改革を遂行せんとせしも時機未だ至らず、社長氏が板挾みの苦境にあるを見るに見かねて、断然退社、何と云つても出社せず、遂に生来の我艦を小気味よく通し候ひしは聊(いささ)か痛快に候ひし、但しそのため今年の新年は寔(まこと)に新年らしからざる新年を迎へ申候、日報は日本事業家中にても麟麟児を以て目さるゝ山県勇三郎氏出資し、前福島県選出代議士にして目下当釧路を代表する道会議員たり、本道に於ける在野党の主領たる白石義郎氏社長に候ひき、此釧路新聞も亦同社長の所有に候。
白石社長は度量海の如き篤実の老紳士に候が、嘗ては国事犯を犯して河野広中氏らと共に獄につながれたる事もあり、又「真理実行論」といふ急激なる自由主義の世界統一論を著したる事などもあり侯ふ人なれば、胸の奥にはまだ若々しい革命思想を抱き居り、小生とは所謂支那人の「肝胆相照す」底の点あり、小生日報を退きしも小生を捨つるを欲せず、種々好意を尽しくれ候ひしが、五月の総選挙迄に現在の釧路新聞を拡張して釧路十勝二国を命令の下に置く必要あり、其拡張の大責任を小生に是非やつてくれよとの事にて、小生は釧路クンダリ迄流れてくる気はなく候ひしも、情誼上止むなく承諾し、拡張の基礎出来次第目報に帰るも何処へ行くも小生の自由といふ約束の下に此度同氏と同道、雪の北海道を横断したる訳に候、
小生着釧の翌日、社は今回新築の煉瓦造の小さいけれど気持よき建築へ移転仕候、現在の編輯局は前々よりの主筆と小生と外に二名に候が、早晩更に二三名増員すべく、新聞は目下普通の新聞より一廻り小さき形(三陸新聞と同じ)に候が、註文中の新印刷機及び活字着次第(多分三月一日より)普通の新聞に拡張し、引続いて六頁新聞とする筈にて、目下は現在の形にて二日置位に六頁出す事にいたし侯、小生着任と共にまづ編韓長といった様な役にて、早速編輯の体裁を全部改め、毎日自分で一頁以上書くと云ふ奮発をやり居候所、読者より続々感謝の手紙まゐり(田舎はこんなものに候)社の関係も大いに油をかけてくれ、腹の中でおかしく相成候、実際やつて見れば新聞記者も面白いものに候、但し毎日一面に政治上の事、外交や経済の事まで書くと聞いたら、大兄などは吹き出して笑はるゝ事と存候、呵々、滑稽はそれのみならず、四日許り前に当町愛国婦人会の支部の会合ありたる際臨席いたし候ひしに、無理に乞はれて辞する道なくなり、芝居をやる気にて「新時代の婦人」といふ題にて一場の演説をやりて、少なからず釧路婦人を驚かし、翌日の新聞に其演説筆記を載せ候事など、殆んど滑稽の極かと存侯、来る二日には社の新築祝として盛大な宴会を催す筈にて、準備委員長といふ名称を頂戴した小生は、一昨夜徹夜して新案の福引二百本許り工夫いたし候、釧路は案外気持よく候、都合によつたら三月小樽に帰らずに二三年当地に居ることにし、家族をも三月頃呼寄せんかとも考へ候、これは社の方の要求にて候が、七分通りは小生も同意なり、社長は此間小生に時計買つてくれ候が、若し長く居る様になれば、社で家を買つて小生を入れてくれる由に候、二三年居れば、屹度今迄の借金をすまし、且つ自費出版やる位の金はたまるべしと存候、呵々、
今日は孝明天皇祭にて休み、
まだ/\沢山書く筈に候ひしも、釧路築港問題に関する有志協議会に出席すべき時間と相成候間、遺憾乍らこれにて擱筆仕候、文壇の事についても大に申上度事有之候、草々、
  四十一年一月三十日午後一時
                 釧路にて 啄木拝
 花明大兄 侍史
二白 アイヌには急がしくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居侯、小生が長く居る様だつたら本年の夏御来遊如何、中央公論のアレは面白く拝見仕候ひし、今日以後の日本は、明星がモハヤ時勢に先んずる事が出来なくなつたと思ふが如何、自然主義反対なんか駄目々々、お情を以て梅の花一つ御送り被下度候、
 


242 一月三十日釧路より 沢田信太郎宛

アノ事は怎(どう)も心配でならず、御経過如何に候哉。何卒御知らせ下され度願上候。
それから留守宅の方いろ/\御配慮下され候由奉鳴謝候、何分よろしく願上候。帯広には寄らずに二十一日夜九時半当地着。二十三日表記の下宿に入り候。二階の八畳に火鉢一つでは零度以下の寒さとても凌がれず、下宿の主婦に談判して、炬燵をつけることに致し候へど、大工の都合で二三日延び候ため、アンカを買つて来て机の下に入れ、やうやく筆の氷るのを防ぎ居り侯。
社は新築の煉瓦造にて心地よし、二日に新築祝ひを盛大にやる筈にて、小生は新案の福引百五十本許り工夫いたし侯。
機械来ぬ中は現在のまゝで時々六頁出すことに致し候。紙面の体裁を改めた所、少し評判よし。釧路は気持のよい処、但し寒いのが欠点なり。遙かに阿寒山を望み候景色もよく候。白石社長は五日頃上京の途につく筈。奥村、金子、鯉江三人の所置を一任してくれと云ふ手紙、谷から社長にまゐり候。奥村君だけは是非喰ひ止めて頂きたく候。最もイザとなれば、一応帯広の支杜に置く事だけは社長の同意を得たり。如何。至急返事まつ。「タニヨリジムノコトシツモンサレタ、コタヘルギムアルカ」と云ふ電信昨日小林より社長にまゐり候。但し社長は昨日朝帯広に行き候故未だ見ず。明日は帰へるならむ。奥村君の番地知らして下さい。何卒よろしく。おひまの時何か書いて下さいませんか。
  一月三十日
           釧路港洲崎町一丁目関方 石川啄木
 小樽区花園町畑十四 沢田天峰様
 


243 一月三十日釧路より 藤田武治、高田治作宛

雪の北海道を横断して二十一日夜着釧。北天遥かに阿寒山の白装束を望む風光は、殺風景なる小樽にまさる事数等に候。今度の社は新築の煉瓦造にて心地よく、鳥なき里の蝙蝠(かうもり)、益々我儘が出来る。
雪は至つて少なけれども、釧路の風は意地が悪い。零度以下の寒さを以て耳を落し鼻を削らずんば止まざらむとす。二三日前社長が時計を買つてくれたので、珍らしくて/\毎日々々時計をいぢくつて居候。
留守宅では花園町畑十四、星川丑七方へうつつたさうだから、何卒行つて『其面影』をとつてくれ給へ。
  一月三十日夜          石川啄木
 藤田武治様
 高田紅果様
 

 
 
解説 御無沙汰の罪は幾重にも・金田一京助 (新谷保人)

 明治四十一年一月元旦、啄木は久しぶりに親友・金田一京助に賀状を書きます。前年正月以来の金田一への手紙。北海道に渡ってきてからもいろいろな出来事が続いたせいか、金田一に様子を報告する余裕は啄木にはなかったようです。(金田一の方にも、七月に大学を卒業した後、樺太に行ったりしていた事情もあるのですが…)
 その金田一から久しぶりに賀状の返事。一月十八日の啄木書簡は「御ハガキ拝見せし時の嬉しさ!」と、まるで啄木の満面の笑みが見えるような書き出しです。この時、啄木は釧路に赴く前日。
 通常、啄木の「東京病」は釧路に行ってから爆発したように伝えられているのですが、私には、なんとなくこの金田一との手紙のやりとりが復活したこの頃からすでに火がつき始めているのではないかとも思えます。一月三十日の金田一宛書簡など、もうほとんど明治四十年・北海道の総括ですし。日記の明治四十一年一月七日にも「夜、例の如く東京病が起つた」という記述も見えます。

 啄木の「東京病」における「東京」とは、どんな「東京」なのでしょう? 時々、わからなくなることがあります。日記や手紙に見る限り、啄木の「東京」には、節子はじめ家族と一緒に暮らしている「東京」というものはあまり感じられません。どこまで行っても、金田一の下宿・赤心館に転がり込んで明星の仲間たちとフーテンの日々を送っているような姿しか思いつかない。前年の北海道で見せた「青年」といった風貌とはちょっとちがう、「若者」とでも云えばいいような別の様相が感じられるのです。

 しかし、私は、どちらの啄木像が本物なのか?正しいのか?という風に問題を立てたくないのです。ここは、啄木自身も分裂していたのではないでしょうか。家族を呼び寄せて一緒に暮らし、ひっきりなしの金の心配をすることなく書きものができる場所(例えば「函館」のような)を願っていたのも啄木ですし、また、そんな「函館」が叶わない昔の夢(大火で皆焼けぬ)となった以上、もう自分の想い描く「東京」に突っ込んで行くしか方法(東京病)がなかった啄木というのも真実のように思えます。
 啄木の「釧路」とは、その矛盾が極限まで煮詰まる寸前、もう爆発するしかなかった場所の記憶でしょうか。金田一京助宛の手紙を小樽のポストに投函した後、十九日、啄木はその釧路に向かいます。

金田一京助(1882〜1971) 啄木の親友。明治三十四年三月盛岡中学校卒業後仙台の二高をへて東大に進学、言語学を専攻した。中学時代短歌に関心を持ち、東京新詩社に加入して、花明(かめい)の筆名で『明星』に作品を発表、与謝野鉄幹(寛)の知遇を得て終刊まで同人としての地位にあった。明治四十年七月大学を卒業、翌年四月より海城中学校の講師となったが、半年でその職を辞して三省堂編輯所にはいり、かたわら国学院の講師を兼ねた。この年北海道より上京して来た啄木と下宿を共にし、できるかぎりの援助を惜しまなかった。啄木没後はアイヌ叙事詩ユーカラの研究に没頭、昭和七年この研究に対し、帝国学士院恩賜賞が授けられた。この間東大助教授に任ぜられ、昭和十八年停年のため教授の職を退いてからは早大と国学院大に教鞭をとり、昭和二十九年には文化勲章を受けた。アイヌ関係と国語学関係の著述が多く、啄木との交遊を綴った『石川啄木』(文教閣昭九)は戦後角川文庫に収められ、広く愛読された。昭和四十六年十一月十四日死去。没後三省堂より『金田一京助先生思い出の記』が刊行された。
(石川啄木全集・第七巻/岩城之徳編「解題」より)