230 一月一日小樽より 金田一京助宛 謹賀新年 明治四十一年一月元旦 さすらひ来し北の浜辺の冬は寒く候、 御無沙汰の罪は幾重にも、 小樽区花園町畑十四 石川啄木拝 金田一京助様 |
231 一月一日小樽より 新渡戸仙岳宛 恭賀新禧 御無音御ゆるし下され度侯家持たぬ子は流れ/\て只今北海の浜にさすらひ居候 明治四十一年一月 新渡戸仙岳先生 小樽区花園町畑十四 石川啄木 |
232 一月一日小樽より 沼田末次宛 恭賀新禧 明治四十一年一月元旦 北海道小樽区花園町畑十四 石川啄木 |
233 一月一日小樽より 宮崎大四郎宛 賀正 四十一年元旦 石川 啄木 セツ子 宮崎大四郎様 |
234 一月一日小樽より 向井永太郎宛 賀正 明治四十一年元旦 小樽花園町畑十四 石川啄木 向井永太郎様 |
498 一月一日小樽より 小笠原謙吉宛 恭賀新正 併て御無音の御詫申上候 明治四十一年元旦 北海道小樽区花園町畑十四 石川啄木 小笠原迷宮様 |
499 一月一日小樽より 岩崎正宛 賀正 四十一年元旦 石川啄木 岩崎正様 |
高田治作(1891〜1955)筆名紅果。小樽時代啄木と交遊のあった文学少年。北海道小樽郡色内(いろない)町の出身。量徳小学校卒業後、小樽市内の私立の商業学校に学び、明治三十九年二月保険代理業奥田商会に入り、後年その代表者となった。友人の藤田武治と小樽時代の啄木を訪ねて、その指導を受けたのは、紅果が十七歳のときのことで、それはきわめて短い期間であったが、この啄木に接したことは、彼の生涯の思い出となった。啄木も紅果を弟のように可愛いがり、上京後も文通して、その近況や中央文壇の消息を知らせている。紅果はその後、小樽における代表的な文化人の一人として活躍、この地で創刊された文芸雑誌や短歌雑誌『海鳥』『新墾(にいはり)』『新短歌時代』に関係して、地方文化の向上に貢献した。戦後まもなく小樽啄木会を組織し、同地に疎開中の新星杜より『秘められし啄木遺稿』(昭22)を出版した。 (石川啄木全集・第七巻/岩城之徳編「解題」より) 高田紅果のいちばんの功績は、「在りし日の啄木」をこの世に残したことに尽きます。この一文によって、私たちは、啄木のいた小樽の街を、百年前の啄木の足跡をありありと描くことが可能になったのですから。沢田天峰や野口雨情といった啄木の同時代人・同業者ではない視点、「少年ファン」というユニークな視点からの切り口がとてもシャープ。すばらしい資料を残したものだと改めて感心してしまいます。(年齢的にいえば、雨情と啄木、啄木と紅果の年の差は同じなのですけれどね…) 啄木が未だ日報記者として、市井に活躍していた事であるから、たぶん11月下旬だったと記憶するが、東京社会新聞の一派が主義の宣伝と党勢拡張に来樽して、演説会を開いたことがあった。西川光次郎、添田平吉に、地元から小樽新聞社会部長長谷川企救男と、当時道庁の役人で後に空知農校の校長になった礪崎友二郎両君が応援に出演した。会場は第一火防線通りの壽館という寄席を使った。私も社会新聞の読者だったので、これらの偶像破壊者の演説を聞きたくて入場した。(中略) 演説会が終わってから楽屋で有志の 茶話会が開かれた。私も出席したが、偶然そこに啄木も出席しているのを見た。日報の記者として職業柄であったのか、あるいは個人的な興味で、その集まりに加わったのか私は知らない。然し啄木は仲なかよく質問する方の側だった。我々青二才は黙って質問や応答を聞いて満足していた。どんな問題が当時の主題であったか今は記憶がない。雖然啄木があまりに初心者らしい、所謂社会主義入門程度の質問や話題を出して西川と応酬しているのを傍聴して、啄木の社会思想に対する素養は、他の文学詩歌に於けるとは異なり、全く駆けだしの域を出ぬものを見た。私はどちかといえば淋しい裏切られた様な失望を感じた。 (東京社会新聞講演会) 「在りし日の啄木」でよく引用されるのは、明治四十一年一月四日の社会主義演説会の場面でしょうか。啄木と西川光二郎との出会いをスクープした文章は、世にこれ一つきり。たとえ日付の記憶が間違っていようが、啄木の思想的素養を「初心者」と書く態度が生意気だという意見があったとしても、このスクープの価値は下がらないと私は思いますけれど。 啄木は感情、感覚の人なのであって、論理的思考においては本当に「初心者」「素人」だったのではないかと私も思う時があります。(そして、西川もけっこう激情の人なんで、結果的に、この場面でいちばん論理的だったのは高田紅果少年であったという意外な仮設も成り立つかもしれないですね…) 今まで「在りし日の啄木」はこういう啄木研究の実証的な側面でしか利用されることはなかったのですが、今回、小樽日報社百年に伴って何度も読み返すことがあり、それに従って、「在りし日の啄木」の大切な部分は、なにも社会主義演説会の場面だけではないことがよくわかりました。 例えば、「小樽日報文芸欄」という章。これは、小樽日報の明治四十一年新年号の文芸作品募集に、紅果や藤田南洋も詩や短歌や小品文を応募したことが語られています。ただ、この十二月中に啄木は辞表提出をしていますから、自分たちの応募作品はどうなっちゃうの…という思いが紅果たちにはあったのでしょう。 然し本人は案外平気で、社内の消息にも通じ、澤田氏などとも社の内部について関心を持っているらしい調子で談話するのを聞いた。社を退いたら困るのではないかと案じたが、露骨にそんな質問することも遠慮された。それでも啄木は社をやめても困らぬ、と言わぬばかりの態度で、例の負けず嫌いの昂然たる様子を示しているのだった。「社には出ぬが、募集文藝の選はすることになっている」というので、私も藤田も心強く、発表の日を待ったものである。 (小樽日報文芸欄) こういうところ、とても等身大の啄木というか、当時の啄木の様子を正確に描いてあって、たいへん参考になりました。そして「入選作発表」。長詩では藤田の『夕暮れ』が天賞。紅果の『吹雪の夜』も地賞に入選しています。「短いささやかな叙事詩に過ぎなかったが、思い出すと子供の頃の作文を見る様な、妙な感慨を覚えるのである」と紅果は一応謙遜していますが、やはり嬉しかったのでしょうね。藤田南洋の『夕暮れ』、紅果の『吹雪の夜』全文をしっかり掲載しているところが、なんというか、モロの北海道人だなぁ…と笑ってしまいます。 もうひとつ、「啄木の留守宅」という文章も忘れがたい。これは、啄木が釧路に去ってからも、二人が啄木の留守宅(辰巳通りの二階建ての古い家)を訪ねた際の出来事。 啄木の留守宅は階下の部屋に、母堂や節子夫人と京子さんの三人がこじんまりと住んでいた。母堂がとても喜んで若い私たちに応対されて、啄木のことをハジメが、ハジメがと名呼びにして、盛岡中学校時代に同窓の仲間が始終訪ねて来て、夜遅くまで話したり議論したりしていたこと、子供のころから同志のものと何か企画すると、必ずその中心になって騒ぐことが好きでといった調子の一人息子を思う愛情が、年少の私にもよく受け取られ、恁うした親子が離れ住む寂しさに同情せずにおられなかった。 母堂が節子さんに言いつけて、盛岡で啄木が刊行した『小天地』を探し出させて、一部宛記念に貰った。田舎で印刷したにしては,仲なか垢抜けした感じのいい文芸雑誌であった。 (啄木の留守宅) 紅果たちは、この「小天地」を見て初めて、節子もまた閨秀歌人であることを知るのです。「老母の世話や愛児のことに逐われて、髪など大抵束ね髪にして、顔に下がってくると、その都度掻きあげるようにしながら、世帯の苦労に悴れて見える」節子が、じつは、啄木と同じく歌を詠む同志なのだとハッと気づくくだりは、本当に、少年の純情に溢れた筆致で、私はちょっと涙腺がうるうるしました。 |