啄木からの手紙
― 明治四十年十二月 ―
 
 


226 十二月九日小樽より 向井永太郎宛

先日はなつかしき御手紙拝見、札幌と札幌の人々が恋しくてたまらず候、この二三日は去る六日夜の大時化の記事にて忙殺され居候が、船が流されたの沈んだのとは余り景気のよい話にも無御座候、主軍を白兵戦場に送つて以来断頭台に上るもの合せて五名、小生の意見すべて行はれ候ふ事とて痛快、編輯長には沢田天峰兄を入れ申候、実はそれやこれやにて随分ツマラヌ急しさに席暖かならざる憾有之候、然し新聞記者なる職業は決して吾党の喜ぶべきものには無之候、油断すれば死んで了ふ気味有之候、日報社にありて小生のなすべぎ事は既になし了れり、今後の発展には自ら其人あるべくと存じ、何とかして札幌にまゐり度存居候、但しこれは秘密なり、遠からず出札してお目にかゝるべく候、尚田中の久子様の事母堂に御約束の学校の方目下区内に一人もアキなし、何れ出札の上ゆる/\御世話致すべしと御伝へ被下度候、
奥様アヤちやんへよろしく
  十二月九日夜
          小樽花園町畑十四 石川啄木拝
 向井永太郎様

 


227 十二月十三日小樽より 宮崎大四郎宛

君、急がしいためとは云へ御無沙汰誠にすまぬ、
ところで面白い事が出来た、昨夜事務長と喧嘩して頭に四つ五つ瘤を出した。僕は今日から出社せぬ、退社だ/\、沢田君も二三日にやめるだらう僕らは日報を見限つた、
当地の三富豪が金主で中西代議士が社長になり来年一月末から有望な一新聞が札幌に生れる、僕はそれの三面主任に九分通り決定して居る、矢張僕らは札幌といふ美しい都に縁が深いのだ、但し本年中は当地で暮す、転ずる毎に月給の上るのはよいが、その度金がかゝるには閉口、札幌へ行つたら雑誌も必ず出す、君の問題のその後をきゝたい、結婚の時は行き度いものだ、妹を札幌の鉄道管理局へ奉職させた所がマタ今日脚気になつて帰つて来た、これには閉口、夏に貰ふた妙薬を売る所が今もあるか知らん、あるなら誠に済まぬが、一週間分許り恵んでくれ玉へ、
ハゲは直径一寸以上のもの三つになつた。一家皆々壮健幸ひに御安心を乞ふ。
  十二月十三日夜
         小樽区花園町畑十四番地 石川啄木
 宮崎大四郎様

 


228 十二月二十三日小樽より 伊五沢丑松宛

五月初め春風に駕して一度故国の花に背いてより既に八閲月丁未尽頭に臨んで徐(おもむ)ろに往事を数へ候へば、転(うた)た感慨の繁きを覚え候、その後皆様幸にして別段の御変りもあらせられざる由、仄かに伝へきいて御喜び申し上げ候、小生一家亦何の事もなく、相変らず貧乏は致居候ふものゝ、他日の企画のため多少は意義ある生活を営み居候間、乍他事御休心被下度候、
去月一度御高書を拝し侯ひしも、身世の匆劇日夕を分たず、燈を剪して浄几に向ふの暇もなく、其の日/\を空にのみ過して遂に一葉の御返事さへも不差上、失礼を重ね侯ふ罪は何卒御推恕被下度候、
四方八方へ御無沙汰を続け居候ふ内に、夏は何日(いつ)しか秋、秋も更けては名だゝる北海の冬と相成、今日此頃は粉雪吹き捲く朝暮の風宛(さ)ながら槍の如く、流石に聊(いささ)か身に応へ候、幸ひにして数日前より閑散の境を得、炬燵に尻温ためて静かに戊申原頭の活動を画策罷在候、函館の百二十余日は要するに土地慣れざる為思ふ存分の仕事もなく幸ひにして雑誌「紅苜蓿」の全権を握りて自ら経営するに至り一方函館日々新聞に遊軍として執筆する事に相成候ひしも、発展の準備漸やく成りて、雑誌の秋季大附録号の原稿全部印刷所に廻付して間もなく例の未曽有の大火にて幸ひ類焼の災は免れ候ひしも、殆んど一切の事業を中絶せざるべからざるに至り、止むなく九月中旬に至りて札幌北門新聞社の聘に応じて焼跡を見捨て、秋風と共に札都の人と相成候ひしが、滞在僅か二週日、小樽日報の創業に参加する約成りて、九月二十七日夕、当地には参り侯ひき、日報は北海事業家中の麒麟児として、本道は勿論内施の各地に迄諸種の事業を営み、浦塩にも支店を有する山県勇三郎氏が資を投じ、前福島県選出代議士にして今本道々会議員たり在野党主領を以て目せらるゝ白石義郎氏が直接の経営者となりて創始せられしものに候ふが小生は第一回編輯会議の日より列席して具(つぶ)さに社業の内外を鞅掌(あうしやう)し、十月十五日には初号十八頁(北海未曽有なり)を出すの運びに至り、爾後引続き刊行して今日に至り、社内に内訌起りて紙面為めに振はざるに当りては、小生の意見全部社長の用うる所となり、当初八名なりし記者のうち、主筆以下六名迄も断頭台に上せ、新たに小生の知友を容れて編輯局裡初めて新面目あるに至り候ひしも、社業未だ揚らず、社の内部に根本的改革を行ひ以つて全然其方針を変更するにあらざれば社運容易に開けざるを見、夕刊計画其他を述べて社長に迫る所ありしも、不幸にして出資者と社長との間に面白からざる事情を生ずるに至り、社長も今は自分一人にて万事を決するを得ざる時機となり資金亦其の途を失はむとするに至り侯へば、小生例の癇癪を起し男一疋居らぬ社はイヤだと駄々をコネ出して去る十二日以来代る/〃\の迎へあるに不拘出杜を拒み、遂々我儘を徹して公然退社する事と相成候、人は儘にならぬが世の中と申し候へど、小生は出来るだけ多く我儘をやるが得策と存じ、若いうちに種々の経験を積むつもりにて、随所に我儘を働く決心に御座候、我儘の出来るだけ北海道は自由愉快に候、四五年中には必ず何か快心の大芝居をやつて見るつもりに候、
目下北海道第一なる札幌の北海タイムス社及び、中西高橋両代議士が新たに札都に起す一新聞と、両方より交渉有之候が、何(いづ)れ新年を待ちて何れとも決定し、旗鼓堂々再度の札幌侵略を試むるつもりに御座候、札幌は流石に北海の主府なれば諸事小生の活動を試むべき舞台も多く、且つ余程外国風の風致に富みて物価も比較的安く、住心地最もよき所に候、四月頃よりは同時に雑誌二種(一つは政治実業一つは文学及婦人雑誌)出す筈にてそれ/〃\計画も出来出資者も有之候へど二株(百二十円)だけ不足にて目下苦心致居侯、特に四月を選び候ふは小生の知人が其所有する印刷所を拡張してこの雑誌を引受くる筈にて、その新機械新活字購入等にて紀元節迄には間に合はぬために候
老父は野辺地にあり来春を待ちて渡道すると申越し候、老母初め妻子皆々健全、小生如き、函館にて毎日海水浴をやりし為めか風邪一つ引かぬ頑強には自分乍ら感心致居候
岩本氏の通信によれば、清明なる故山の天地に肺患侵入し、数氏相亜(つ)いで他界の人と相成候由、鎖魂の極みに御座候、酒と小紛擾と不和合とが由来渋民の痼疾なり、弊極まれば天之に臨むに火を以てし、水を以つてし、若しくは病を以てす、桑港の地震函館の大火皆然り、渋民の人も宜しく此機に於て一大覚醒を起して然るべき事と存侯、貴意如何、学校の方も依然として眠れる如しとか仄かに伝へきゝ候、法則と形式とは外皮のみ、火の如き熱誠なくんば一切の事土偶(でく)に等しからんのみ、人格の活火を以て子弟の心を焼き尽す程の精神なくんば、教育の実績到底期すべからず、小生は他日再び機あらば代用教員となりて故園の子弟と日夕を共にしたく存じ居候、職員諸君にして共に談ずるに足らぬなら、一つ岩本氏に、巨杖政策を執つて高手的にドシ/\やられては如何と御伝言被下度侯
来客有之候まゝこれにて擱筆仕候
御家内様は勿論隣りの元吉殿へもよろしく御伝へ下され度候
家内共よりもよろしくと申出候、草々
  十二月二十三日午前
              小樽にて 石川啄木
 伊五沢丑松様 侍史
機会あらば慶三時哉等の少年諸君に手紙呉れよと御伝言下され度候

 


229 十二月二十六日小樽より 沢田信太郎宛

昨夜は御粗末、失礼、
釧路新聞を理想の新聞とする方針として、熟考の結果左の案を得たり。
一、現在の主筆は主筆でよし、
二、奥村君、吉野君を各二十五円にて入れること、
三、外に二十円の三面の人一名入れる事、(小生に心当あり)
四、初めに小生に総編輯をやらして貰ひたし、準備つき次第二面を独立して奥村吉野二君交る/\之を主宰する事、
五、第五面は三面の二君中非番の人之を編輯す、
六、一面は同人一同の舞台、
    以上
右の愚見にして実行せらるれば、編輯局中に一種の共和政治行はる、人数は財政の都合により前記の人頭にても、六頁出せぬ事なし、従来の人は従来の儘にて構はず、奥村、吉野二君共に為すあるの人にして、然かも其人物性行大いに吾人の意を得たり、且つ共に或る野心を有する人なるが故に之を二面の活舞台に於て、充分土地の活人物に接せしむる事大いに好からむ。
奥村君を日報社より抜く事は大兄に於て大いに異議の存する所ならんと雖も、これは天道に悖るものと云ふべし、何故なれば、好漢奥村の如ぎ庸俗佐田の如きものゝ下に置くは有為の人間を侮辱するものにして、奥村自身も快とせざるべく、大兄亦其非理を知らむ。小生の如きは天下の大不平なり
釧路の地は白石先生が根拠地なり
然して裡面に於ては、日報既に大兄のあるあり、大兄さへあれば天下太平と称して可ならむ。奥村よし去ると雖も天下の逸才を抜擢し来つて之を手足の如く用うる事大兄の胸中成算なしとは云はさぬ。
若し右の意見にして全部実行せられうるものとすれば、小生は三年でも五年でも釧路に尻を落付けて太平洋の潮声を共とせん
  二十六日                  啄木
 天峰大兄

 

 
 
解説 若き商人・藤田武治 (新谷保人)

 毎年十二月の啄木話題はどうしても小樽日報社のあの事件になってしまいます。でも、今年は五月から来道百年記念でずーっとやってきていますし、なんか、私も秋の啄木祭で力使い果たしてしまったような感じで… こういう時こそ、寅吉の話じゃない「十二月」を書いてみたいと思ったのですね。それで、藤田武治。

藤田武治(1891〜1938) 筆名南洋。啄木の小樽時代交遊のあった文学少年。歌集『一握の砂』に「あをじろき頬に涙を光らせて死をば語りき若き商人(あきびと)」と歌われている。「若き商人」とあるのは、当時藤田少年が小樽市内の雑穀商浜名商会の見習店員として勤務していたためである。「死をば語りき」というのは当時死生問題の疑惑と、死の恐怖に脅えた彼が、啄木を訪問してその煩悶を訴えたときの思い出を詠んだものである。藤田はその後大正初年小樽の海鳥杜の同人となって活躍、創刊号に「石川啄木氏の面影」を掲げて当時を偲んでいるが、晩年は経済的にも家庭的にも不遇で、職業も雑穀仲介人、古本屋と転々し、昭和十三年札幌で死んだ。

 啄木は明治40年11月22日の藤田武治宛書簡で「御手紙拝見仕候お目にかゝり度候間一両日中に花園町畑十四、拙宅へ御来車被下度願上候、但し夜分」と書いています。この日から数日の内が、啄木と少年ファンである藤田武治との初対面と考えられます。
 同じ小樽の啄木を訪ねた高田紅果が、「在りし日の啄木」の中で、藤田がまず一人で啄木家を訪ねた(「死をば語りき」はこの時でしょうか?)後に、改めて二人一緒に訪問したと語っていますから、二人一緒に啄木を訪ねたのはさらに十一月下旬以降とならなければなりません。

 私は「十二月初旬」でもおかしくないと思っています。高田紅果は、私が啄木に初めて逢ったのは「十一月初旬」と言っていますが、なにかしら、高田紅果の記憶はいつも一ヶ月ズレているように感じます。明治41年1月4日寿亭の社会主義演説会(西川光二郎と啄木との初対面)も、紅果は「十一月下旬の事」と書いたりしていますしね。

 啄木と藤田武治、高田治作(紅果)たちとの交流は、啄木が小樽を離れても続きます。釧路に移った啄木はさっそく1月30日にも、2月17日にも二人に手紙を書いていますね。交流は東京に戻ってからも続き、最後の闘病の時期にまで及びます。啄木の心に最後まで残った「小樽」という意味でもたいへん興味深い。

 以上は、市立小樽文学館で開催されている「石川啄木と小樽日報」展のカタログより、亀井志乃編の「石川啄木と小樽日報関連事項年譜」を参考にしました。この年譜には、亀井志乃氏翻刻の「藤田南洋日記」などかなり珍しい資料も使われており、百年前の啄木を知る資料として現在最先端を走る年譜といえましょう。啄木についてものを書く時は手放せない資料になりつつあります。