啄木からの手紙
― 明治四十年十一月 ―
 
 


218 十月二十六日小樽より 宮崎大四郎宛

朝八時に出社、昼飯と夕飯は編輯局で喰ふ、世の中が馬鹿に急がしい、
天長節には一しよに一つ飲む事、待たるゝ/\、今夜当直一時頃でなければ帰れぬ
今朝初雪、紅葉と雪のダンダラ染は美しい、窓外霙の声あり
  二十六日夜十一時
              小樽日報社 石川啄木
 宮崎大四郎様

 


219 十一月十一日小樽より 沢田信太郎宛

今日はどうしても杜長に逢ふ時間なしとの事、但し明日は小樽に来る由故、残念乍ら此儘帰り候、尤も兄の事其他概略手紙に書いてやり候、
委細明日社長と会見の結果。
今日四時の汽車にて帰り候、結果は手紙か又は再び札幌に来るかの二つの道によりて御知らせ可致候
  十一日午後一時半           啄木
 天峰兄 侍史

 


220 十一月十三日小樽より 沢田信太郎宛

戦況第一報……希望確実
アカシヤの子の君の御手紙、昨日御令弟より難有頂戴いたし候。愈々の御決心、我党の士の為めに万歳を三唱すべし。
社長昨日来る筈にて来らず、本日来る筈にて来らず、明日こそ愈々来るとの事に候。
然れども小生の札幌行は決して無益に候はざりき。昨日出札して本日帰社せる小林庶務、本日小生を別室に呼びて白石杜長よりの伝言を伝へて曰く、大体君の意見に依る故安んじて筆を執られよと。小生は札幌を立つ時意見の概略を認めて社長に送りしに侯ひき。
明日は関ケ原なり、震天動地の改革恐らくは意外に早からむ。天下分け目の戦ひ、月桂冠をうくる者我等に非ずしてまた誰ぞ。機械活字は本年中に完備すべく候、六頁になる迄は模範的の四頁新聞を作らむ。既に六頁なりたる時は其二頁だけを市中に商況を主とする夕刊として発行する計画也。明年一月より半ケ年間の大活動は天下の大勢をして、我が掌中に帰せしむ。
工場の信用は既に我が掌中にあるものゝ如し。
  十三日夜九時            啄木
 天峰大兄 御侍史
二白、昨日小林庶務、社長の命によりて道庁に兄を訪ひしも、兄不在なりしと申居り候

 


221 十一月十三日小石川(ママ)より 宮崎大四郎宛
御手紙拝見、分醸場一件何れは同じ発展だから慶賀/\、
○頂戴多謝あの時すぐハガキ差上げし筈なりしが御覧にならざりしか花園町畑十四にト居、皆々健全、京子大にアバレル、
吉野君財産差押の件、折角金策したがダメだつたので何といつて手紙やつたらよいか気の毒でたまらず、誠に困つたものなり
  十一月十三日
        小樽区稲穂町 小樽日報社 石川
 宮崎大四郎様

 


222 十一月十四日小樽より 沢田信太郎宛(電報)

「ダイセウリイサイシメン」イシカワ
 


223 十一月十四日小樽より 沢田信太郎宛

戦況第二報
万歳!!! 万歳!!! 万歳!!!
本日社長来り決定せり、但し○は初めから高いよりはアトで月に二度でも、三度でも上げるからと云ふので当分三五円也。何卒当分だけ我慢願ふ
出来る丈け早く赴任セラレヨ
アタマは明日宣告をうくべし
残党は二三日中
万歳/\
  十四日午後四時           啄木
 天峰兄

 


224 十一月十四日小樽より 天峯沢田信太郎宛

戦況第三報 十四日午后十時
家に帰って此手紙をかく、
今回の戦所謂天祐也
主筆は多分明日と明後日と出勤して無何有の郷に御栄転となるならん、それにつき主筆の居るうちに兄に来られて彼聊(いささ)か可哀相につき、十八日か十九日に赴任して来て頂きたく候、そのうちは僕と佐田君にて孤城を守る、兄と顔合せをさせぬだけが我等の敵将に酬ゆる好意に候、尤も小樽にはいつ来らるるも兄の御都合次第、実を云へば成るべく早く万事お話したいのに候、赴任前に大通西三丁目に社長を一度御訪問遊されては如何 札幌支社その他は兄来ると同時に起るべき第二次の策戦なり 万才
                   啄木

 


225 十一月二十二日小樽より 藤田武治宛

御手紙拝見仕候お目にかゝり度侯間一両日中に花園町畑十四、拙宅へ御来車被下度願上候、但し夜分
  明治四十年十一月二十二日午後五時   石川
 藤田様
拙宅は公園通高橋ビーヤホールの少し向ふの北一炭店でお聞きになれば解ります。

 

 
 
解説 「ダイセウリイサイシメン」 ― 沢田信太郎<1> (新谷保人)

 沢田信太郎(天峯)については、明治四十一年の釧路時代のところでも書きたいので、まずはいつも通り筑摩版石川啄木全集・第七巻の岩城之徳氏の「解題」を掲げます。

沢田信太郎(1882〜1954)啄木の北海道時代の友人。秋田県の出身で早大に学んだ。啄木が函館に渡ったころ函館商工会議所の主任書記をしており、かたわら天峯の筆名で苜蓿社の雑誌『紅苜蓿』に創作や評論を書いていた。函館移住直後、啄木はこの沢田の紹介で、臨時雇として函館商工会議所に勤務している。この年八月、沢田は函館の大火を機会に札幌に移り、北海道庁に就職して役人生活を始めたが、啄木の懇請で『小樽日報』の編集長になった。小樽退去後上京して『国民新聞』の記者となり、同社経済部長として活躍した。その後、迎えられて京城の朝鮮銀行に入り、大正十二年帰国後は東洋生命の支配人となり、帝国生命に合併後も同社に勤務した。晩年は愛国生命顧問の地位にあった。

 この中で岩城氏は、沢田天峰の札幌行きを「この年八月」としていますが、正しくは「十月」です。現在、市立小樽文学館で「石川啄木と小樽日報」展が開かれていますが、館長・亀井秀雄氏が「沢田天峰日記」(未刊)を翻刻してくれたことによって、明治四十年小樽日報時代の模様がかなり私たちの前にも明らかになってきました。ありがたいことです。
 パンフレットの「『小樽日報』の風景(亀井秀雄著)」「石川啄木と小樽日報関連事項年譜(亀井志乃編)」などによると、天峰が函館を発ったのは十月十日。これは、札幌に住む父親から八日「北海道庁に職が見つかった」旨の電報があり、母と相談して函館を去ることを決心したものです。十二日には北海道庁で交通係勤務の辞令を受け取っています。
 ただ、父親の家には複雑な事情があり、父親は天峰の実母とは別の女性と札幌で暮らしており、実母は小樽の知人宅に預けている状態でした。この「実母の小樽」というキーワードが、啄木と天峰を再度結びつけることになるわけです。
 十一月九日、天峰はふと思い立って小樽の母を訪ねます。一泊して、山本順次という人を訪ねますが、不在でした。そこで、小樽日報社に啄木がいることを思い出して足を運ぶわけです。この頃の啄木、それは「社は暗闘のうちにあり」(啄木日記)という状態です。十月三十一日、野口雨情退社。「主筆に売られたるなり」(啄木日記)。啄木は主筆・岩泉江東の追放を画策し、江東に代わる主筆を探していたのです。そこへドンピシャのタイミングで函館毎日の経験も持つ沢田天峰が現れたのでした。
 十一月の沢田天峰宛書簡とは、つまり、札幌の天峰に宛てて小樽の啄木から出された「戦況報告」です。中でも、十一月十四日の電報「ダイセウリイサイシメン」からは、社長・白石義郎との交渉にも成功した啄木の高揚感がありありと伝わってきます。

 (この文章を書いていてふと気がついたのですけど、「一握の砂/忘れがたき人人」の中に沢田天峰を詠った歌ってないですね…)