啄木からの手紙
―明治四十年九月下旬―
 
 


210 九月二十三日札幌より 宮崎大四郎宛

今朝少し寝坊して、顔を洗ふや否や食堂に駆け込むと、「石川さんお手紙がまゐつて居ます」といつて、親切な宿の主婦さんが一封の郵書を渡してくれた。見れば君からである。取る手遅しと封おし切れば、――君よ、僕は思はず涙を催した。お心の程は何ともいへぬ有難い。世の中はどうにか成るものである。僕は今恁う考へて安心して居ます。一昨夜かいた手紙は見られたでせう。どうか、少し安心して下さい。
僕は矢張水の如き人間であるらしい。感情の赴く所に流れてゆく。僕には結果を焦慮する賢明がない。先日も馬鹿に悲しく成り、情無くなつたから、其儘アノ葉書を書いた。書いた葉書が如何程君に心配させるかを考へなかつたのだ。許してくれ玉へ。
妻と京ちやんは多分明後日あたり来る事と思ふ。君は京の大きくなつた事を吃驚されるだらう。
昨日並木君から手紙が来た。中に恁(か)ういふ事がある、曰く、大嶋さんへ手紙やつた所が、「本人行先不明」となつて帰つて来た。岩崎君のやつたのも同様である。居所わかつてるなら知らしてくれ玉へ、と。僕は四日許り前に手紙出したが、まだ帰つても来ぬ、返事も来ぬ。どうも心配である。アノ人の事だから大した心配はない様なものの、矢張心配である。
僕の室でやつた大嶋君と君の送別会が思出される。君、思出といふ事程しめやかに嬉しいものはない。函館の生活は僅か百二十余日に過ぎなかつたが、僕には仲々意義のある、楽しみのある生活であつた。これに就いて僕が先づ第一に謝せなければならぬのは、君と吉野君と岩崎君の三人にである。
以前の並木君の性格は君も存知であらう。函館の大火は並木君にとつて実に生涯の幸福であつた、と僕は思ふ。何となればアノ火事で生死の苦を味つてから並木君の性格は一変した。一変したのではない、よい方に急速な発展をした。僕は実に喜ばしい。火事の為めに性格が発展するとはおかしい様だが、詰り、アノ最大非常事件に遭遇して並木君は初めて人生の深い情なるものを経験したのであらう。
モ少し近い処なら僕は旭川は一寸でもよいから行つて見たい。君は単に僕の友人ではない様な気がする。君は京ちやんのおぢさんである。京ちやんのおぢさんなら軈て僕とは兄弟だらう。
京ちやんが或は君を忘れたかも知れぬ。これが大に心配だ。君、世の中は何とかなる。怎か余り僕の事などで心配しないでくれ玉へ。そして、そして、無理な話だかしれぬが、隊の方でもアト僅か四十日だから少し芝居気を出して真面目ぶつてやつてくれ給へ、僕は御存知の通りの気まぐれ者である。君にまで気まぐれ者になられては、僕が心細くてしようがない。
僕に今、一つの苦痛がある。それは外でもない、成るべく云ひたくない話だが、松岡君の顔を見る事だ。以前世話にもなつて居乍ら恁麼な事をいふと君はアキレルだらうが、然し君、よく僕と松岡君の性格を考へてくれ玉へ。否、同君の事を君はよく知るまいと思ふ。函館の兄弟共も、今迄松岡君にダマサレテ居た、虚偽と知りつつ虚偽の交りをしてゐたと憤慨して居る。僕は唯同じ家に居たくない。成るべく顔を見たくない。何故なれば、如何に赤裸々な僕でも虚偽の人の前では虚偽の皮をかぶる。自分乃ち気まぐれ者の啄木は、人のことは構はぬ、唯自分でなるべく虚偽の人になりたくないのだ。この事は然し余り云ひたくない。
綱島梁川氏が死んだ事は御存知であらう。僕は実に悲しい思をした。黒枠のハガキが来た。故人が最後の日迄僕をも友人として捨てなかつた事は、僕の如く不遇(所謂)の境にある者をして充分泣かしめる。北門に弔文を書かうと思ふ。
君、君の手紙をよんで起した僕の感情は兎ても筆紙に尽きぬ。君願くは長しなへに京ちやんのおぢさんであつてくれ玉へ。演習は来月三日から初まるといふ話だが、札幌に来るのは何日頃か知ら。なるべく早く知らしてくれ玉へ。
擱筆する。
  九月二十三日午前
                       札幌にて 啄木
 郁雨兄
今日は上天気である。窓の障子にホカ/\と秋の日があたつて隣室の時計の音はのどかである。

 


211 九月二十五日札幌より 宮崎大四郎宛

君を迎へて豚汁つつかむとせしこの札幌を二三日中に見捨てねばならぬ事出来申候、何だか遺憾千万に候へど、一種の遊牧の民たる小生には致方なく候、小生は、この度山県勇三郎氏によつて新たに起さるべき小樽日々新聞社に入る事に昨夜確定仕候、校正子一躍して二十円の三面記者になりたる訳に候、何卒御笑ひ被下度候、明後日あたり小樽にゆく。初号発行は来月十五日に候へど、一日に編輯会議開く筈に候、新聞の創業時代は大に愉快なるべしと存候、演習の際小樽迄は御出でにならぬのに候ふや、若し御出でになるとすれば彼地にてお目にかゝりうべく候、今后当分家を見つける迄御手紙は左記へ。
 小樽区稲穂町畑十五、鉄道官舎山本千三郎方。
  二十五日早朝
                      札幌 啄木
 宮崎大四郎様

 


212 九月二十七日札幌より 宮崎大四郎宛

昨夜おそく兄の手紙を見候、何とも云へなかりし。
先日差上げたる僕のハガキ御覧の事と存候、小樽日報にゆく事愈々確実、(実はタイムスに今欠員なき故やむをえざりし也)今朝北門の方は辞し候、一時間の後、乃ち四時十分に発する汽車にて、この美しき札幌、兄を迎へて豚汁つつかむとしたる札幌、誠に/\名残惜しき札幌を去るべく候、今窓外の雨篠を束ねたる如く、遠く雷鳴さへ聞え候、僕が札幌にて取れる最後のペンはこのハガキに候、 演習に小樽迄来るかどうか、先日かいて上げた小樽の兄方へ知らしてくれ玉へ。出来る事なら何とかかんとか方法をつけて逢ふ。さうでなければどうも心地が悪い。
  二十七日午後三時
                        札幌にて 石川啄木
 宮崎大四郎様

 


213 九月二十七日札幌より 吉野章三、岩崎正、並木武雄宛

九月二十七日午后三時十分
アト一時間の後にはこの札幌と別れて小樽に向ふべく候委細は小樽より申上べく候、
岩崎君の長い手紙今早朝拝見、兄の御令弟蘇生の由大賀/\浩介さんも万歳、諸君へよろしく
                         札幌 石川啄木
 吉野章三様
 岩崎正様
 並木武雄様

 


214 九月二十八日小樽より 建部政治宛

拝啓
梁川先生御他界の事は、小生の如き御生前御同情を忝うしたる者にとりては何と申上る辞もなく偏へに哀悼の情に不堪所に御座候、嚢(さき)には御永眠の御通知を賜はりこの度また鄭重なる御挨拶に接し深く御礼申上侯
  九月二十八日              石川啄木拝
 建部政治様 御侍史
二白、小生事札幌北門新報に入りて僅かに二週日、この度当地に於て来月十五日より新たに生るべぎ小樽日報を野口雨情君らと共に経営する事と相成昨夜札幌より到着仕候、別封北門新報三葉不躾乍ら御手許に差上候

 

 
 
解説 数人(すにん)の父 ― 吉野章三 (新谷保人)

 さりげなき高き笑ひが
 酒とともに
 我が腸(はらわた)に沁みにけらしな  (一握の砂)

 啄木と吉野章三(白村)の境遇はなんとなく似ています。当時、白村は函館区立東川小学校で教鞭をとっていましたが、彼は、夫妻の生活の他に、老母と長男、それに四人の弟妹を加えての八人家族を養っていました。啄木同様、生活は豊かではありません。
 同じ「一握の砂」の中で「若くして数人の父となりし友」と詠われていますが、これは、子沢山という意味ではなくて、母と兄弟の生活を一手に引き受けていたという意味のようです。(私も長い間「子沢山」と勘違いしていました…)
 その白村が好きな酒を呑み愉快そうに高笑いしているのですが、白村の境遇に似通う啄木は、その影に潜む生活の苦しみを思いやって「我が腸に沁みにけらしな」と詠ったのではないかと岩城之徳氏は解釈しています。

吉野章三(1881〜1918) 筆名白村。啄木の北海道時代の友人。苜蓿社の同人で、短歌をよくした。宮城県柴田郡船岡村の出身。明治三十年同地で教員となり、三十七年八月北海道中川郡利別小学校訓導となり、三十九年二月函館区立東川小学校に勤務した。啄木が函館に移住した直後友好を結び、彼を弥生小学校に就職させた。明治四十一年八月白村は釧路に移り、天寧小学校校長となったが、僻地の単級学校で不便が多く、名ばかりの校長であったところから教職を辞し、新生活を開くべく普通文官試験を受けて鉄道に入り、釧路運輸事務所に勤務したが、肺結核のため大正七年三十八歳で逝いた。
(石川啄木全集・第七巻/岩城之徳編「解題」より)

 

 
 
解説 山本千三郎とトラ (新谷保人)

 啄木書簡211「九月二十五日札幌より宮崎大四郎宛」は、当時の啄木の様子がいろいろな意味で観測できる点で非常に興味深いサンプルに思えます。

 君を迎へて豚汁つつかむとせしこの札幌を二三日中に見捨てねばならぬ事出来申候

 この九月二十五日を転回点にして、小樽/\の連発が始まります。何らかの事情があって札幌を離れる決心がついたのがこの頃。(つまらん話題ですが、この頃の啄木は「豚汁」も連発していますね。よほど気に入ったと見えて、酒の肴は豚汁/\。)

 この度山県勇三郎氏によつて新たに起さるべき小樽日々新聞社

 この「小樽日々(にち/\)」という響きがかなしい。函館日々新聞社への想いがまだ残っているのか。あるいは、宮崎郁雨に書いている葉書だから、つい「日々」と書いてしまったのか。

 演習の際小樽迄は御出でにならぬのに候ふや

 宮崎郁雨は、この時、旭川の野砲第七連隊の見習士官。休暇の合間に札幌の啄木を訪ねたい話は以前の書簡でも度々出ているのですが、啄木(一家)の生業や居場所が定まらないのでなかなか実現していなかったのです。結局、この邂逅は十月十二日の小樽で実現することになります。

 今后当分家を見つける迄御手紙は左記へ。
 小樽区稲穂町畑十五、鉄道官舎山本千三郎方

 北海道の啄木を語る時には、宮崎郁雨も大事なのですが、この山本千三郎の動きも同じくらい大事です。明治三十七年十月の来樽から始まって、四十一年一月の釧路行まで、そのすべてに渡って山本千三郎の影がある。彼が、どの時期にはどこの駅長をしていたかということは必ず押さえておかなければなりません。
 例えば明治四十一年四月、釧路を脱出して函館に戻った啄木は、小樽に残っている母・妻子を引き取るため一週間ばかり小樽に戻っています。この時、山本千三郎は岩見沢の駅長です。だから、小樽にはいません。(こういう細かいところが大事なのです) 山本千三郎が小樽に残っていれば、あのような妻子の冬の窮状を黙って見ていたわけがないのですから。沢田天峰の十倍は厳しい調子で啄木を叱責したことでしょう。でも、かなしいかな今は岩見沢なのでした。ただ、釧路の啄木の意識の中では、小樽と山本千三郎は分かちがたく結びついていますから、家族は小樽の街でならなんとかやっているだろう…みたいな楽観はあったかもしれないのです。

というわけで、いつもの啄木全集・第七巻の岩城之徳「解題」から引用です。

山本千三郎(1870〜1945) 啄木の次姉トラの夫。三東県員弁郡大泉村大字平古二百十番地の出身で、桑名藩士山本常左衛門の三男として明治三年十一月九日に生まれた。北海道鉄道株式会杜に所属し余市駅長、小樽中央駅長、函館駅長を歴任。明治四十年七月一日鉄道国有法施行後は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅長となり岩見沢駅長をへて四十一年四月十六日手宮駅長、四十五年三月十一日室蘭運輸事務所長心得となった。したがって啄木より窮状を訴える明治四十五年一月二十四日付の長文の書簡を受取ったときは、小樽に住み手宮駅長として活躍していた。昭和二年三月高知駅長兼神戸鉄道局高知出張所長を最後に鉄道を退き、昭和二十年三月三日ぜぜ滋賀県大津市膳所(ぜぜ)で死んだ。本巻に収めた書簡は新資料で最終期の啄木一家を浮き彫りする貴重な資料であるが、実物は存在せず、啄木の妹の三浦光子が山本家で筆写した書簡の控が神戸市兵庫区楠谷町の三浦賜郎氏宅に残っているので、啄木研究家遊座昭吾氏の協力でこれによって本文を定めた。

山本とら(1878〜1945) 啄木の次姉。戸籍面トラ。明治十一年十一月一日岩手県南岩手郡日戸村常光寺に生まれた。明治三十年八月十一日山本千三郎と結婚、昭和二十年二月十四日滋賀県大津市膳所で死んだ。啄木没後父一禎を扶養、生涯その世話をやいた。なお啄木の書簡に「山本千三郎様同とみ子様」とあるのは、とらが本名を嫌がって通称をとみ子と名乗っていたので、啄木もこれに従ったのである。