啄木からの手紙
― 明治四十年九月中旬 ―
 
 


206 九月十九日札幌より 宮崎大四郎宛

十三日夕七時、星黒き焼跡の風に送られて函館を離れ、翌暁小樽に下車、十一時半再び車中の人となり、琴似にて兄の大憤邁を思出し、午后一時少し過ぎ着札。北門新報の校正子は午后二時に出社八時迄やるなり、早速歌壇など設けたれど、社の財政思はしからず、給料仲々期日に払つてくれぬ由、小生の前途は我乍ら寒心に不堪、なさけ無く相成申候、今朝は小樽の兄へ意見を伺ふ手紙出し候、小生目下の問題はいかにして生活を安全にしうべきかなり、函館を立つ日与謝野氏より東京に来ては如何との手紙ありしが、迷へる児は未だ返事出さずに居候、行くにしても母と妹は小樽へ置くとして妻子をつれて行つては困る事は同じ也、どうすればよいのか天下無茶苦茶なり、
然し札幌はよい所也、安全に暮すことさへ出来れば五六年は札幌に居たし、札幌は大なる田舎なり、美しき木立の都也、アカシヤの並木に秋風吹き候、水は冷たし、静かにして淋しく、しめやかなる恋の沢山ありさうな処なり、君、朝夕にわが心の火明滅す、飄泊の愁也、男一疋、うた書く事覚えたがために意気地なく相成り候、
家内は今皆小樽にあり、小生はこの室に松岡君と同室、札幌に貸家殆んどなし、この次は元気よい手紙かきたいと思ふ
  十九日朝
               札幌 石川啄木拝
 宮崎大四郎様

 


207 九月二十日札幌より 岩崎正宛

今朝湯屋にて綱嶌梁川先生の訃音を載せたる新聞を読み、変な気持になつて帰り候ふ処、習志野へゆくといふ吉野君のハガキ参り候、君、君、君、「今度の電報はいよ/\最後なるべければ顔を見に行くにて候」といふ文句を読んで、小生どんな心地したか御察し被下度候、人の居ない処へ行つて一人泣きたく相成候、函館が無暗に恋しく成り候、帰りたく候、何とかしたく成り候、今朝程同室の虚偽子の顔の癪にさはつた事無之候、無理ではなく候、御察し被下度候
吉野君の事は何と書けばよいか解らぬから書かぬ事にする、願くは僕と二人前吉野夫人を御慰め被下度候、失礼かは知らぬが、僕の代理をつとめて貰ふ人君の外に無之候、
今日は小生入札以来初めて好天気に候ふに、何とした厄日に候ふぞ、
殆んど書く事が無くなり候、否々、まだ書く、
一昨日小樽なるせつ子より手紙参り候、焼跡出発の際に於ける諸兄の御親切詳しく書き越し候、小生は何と云つて御礼すればよいか解らず候、
御礼のかはりに一つ君に喜んで貰ふ事が有之候、喜ばしい事かどうかは知らぬが、自分は喜んで貰ふつもりに候、外ではなし、小生が今迄余りに生活とか其他のために心を労して自分の本領を忘れむとして居た事を自分自身で自覚致し候、忘られたる文士? 否、自分で忘れむとしたる「誤れる天才」は今はかなき眠りより覚め申候、我が天職は矢張文学の外何物でもなかりき、此の「復活したる自覚」によって如何なるものが期待されうるかは疑問とするも、兎も角小生自身は今再び新らしき心地にかへり申候、小生は右の報導を成すをうるを目下、少なくとも目下に於て、何よりの楽みと存候、
住吉学校の廊下で腰掛の塵を払つて僧服めいたものを着た君と話した事が頭に浮び来り候、
せつ子が恋しく候、京子も見たく候、それから出立の日乃ち吉野君の御喜びの日、同君が「今盛んにやつて居ます」といって炭の粉だらけの手を流しで洗つて居た様が目に浮び候、又橘訓導が茶を汲んで出す時の手つきが思出され候、函館百二十日間の短生活が、小生にとつて甚だ有意義なりし事を君と吉野君と皇天に向つて感謝致候、
札幌は詩人が一生のうち一度は必ず来て見る価値ある所に御座候、「静けく大なる田舎町」と評せば最も適切なるべくや、四辺の風物が何となく外国風にて風俗も余程内地ばなれがし、そして人は皆日本人なるが面白く候はずや、停車場の前通りなるアカシヤの街?(ナミキ)の下をゆく人くる人皆緩やかなる歩みを運び居候、
社の小国君は純正社会主義者に候へど赤裸々にして気骨あり真骨頭あり、我党の士に候、新聞は今正味六千刷り居候が、整理其路を得ず財政の方は困難にて、給料など仲々期日に払ふことなく、現に先月分がまだ渡らぬ由に候、妻子呼び寄せも少し考物に候、今度出る小樽日々新聞の三面主任にならぬかと小国君申し候故、よい様に取計つてくれ玉へと申置き候、小生は万事自然の力に任せるつもりに候、これは小生の処世法として最もよき方法なる事は兄も認めらるるならむ、雑誌の方の事は未だ見当つかず、出しうるものとすれば小樽で出すも札幌で出すもさしたる相違なからむ、何れこの事については更に熟考致すべく候、
君、母君及びおこうちやん秀ちやんによろしく御伝へ被下度候、秋の日ホカ/\と障子に照り、頭がボーッとして参り候間擱筆仕候
  九月二十日朝                啄木拝
 岩崎兄 御侍史
吉野君の夫人へよろしく頼みます、松岡君はまだ無官の太夫、白石村といふところの役場に口があるが、未だきまらぬ。多分ダメならむ、黒石へ手紙やつて金送らせると申居侯、並木君へ明日手紙かく
       ――――――――――――――――
 北門に歌壇起したよ
 


208 九月二十一日札幌より 宮崎大四郎宛

先日は只無暗に世の中情けなくなりて悲しきハガキ書き候ひしが、今夜は大に元気を以て此筆取り上げ候、
同宿の松岡君より来る三十日頃兄札幌に来らるゝ由承はり申候、何ともいへず心頼もしく待たれ候、その時までにはこの六畳間が僕とせつ子と京子と三人の家庭になるのに候、豚汁でもつついて大につもるお話致すべく候
小生当地に入つてより、後に残りし一家は十六日に焼跡をひき上げて小樽なる姉の許に落ちつき居候ひしが、今朝せつ子一人一寸参り、四五日中に来札の事にきめて只今六時四十分の汽車にて帰りゆき候、母や妹は当分姉の許に居る筈に候、
さて北門の方は貧乏にて駄目なる事昨日も今日も変らず、然し少なくとも来月十日頃迄には別の方にやゝ割のよい口出来る筈に候、乃ち北海タイムスに入るか、然らざれば今度新らしく山県勇三郎氏が起す小樽日々新聞に入る事となるべく候、成るべくなら札幌を離れ度ないと存居候へど、所詮は○の高低によるべく、又新らしき新聞は万事に面白かるべく候へば、今の処どちらとも解らず候、兎に角小生の身が生活上少し具合よくなるべきは事実に候、何卒御安心被下度く、
小樽日々にゆくとすれば三面の主任といふ役目の由、タイムスでも校正子でなく外交係でなく、いはゞ遊軍の地位になるべしと存居候、
小生は更に一の喜ばしき新報導を兄に向つて書きうるを悦び候、そは外でもなし、今迄小生は生活その他のために心を苦しむる事多く、何日となく自分の天職を忘れむとする様の傾向有之候ひし所大に感ずる所あり、生活の方は命さへ続けば薯喰つてもよしといふ意気込にて今后は大に「復活したる自覚」を以て文学のために努力する決心を起し侯、小生は楽天家に相成候、人は中々死ぬものに非ず必ずどうかなるもの也といふ信仰を以て、大にやるべく侯、この第二回の覚醒が小生のため決して安価なるものに非ざるは兄も諒とし玉ふならむ、天下初めて太平也、何卒御安心被下度候、「札幌」なる「大いなる田舎町」は盛んに小生の気に合ひ候、妻も大に札幌説を主張いたし候、実際札幌は詩人の住むべき都と存候、
万事は御面晤の時に譲るべく候、京子頗る健全、這つて歩く様に相成候、
向井君親子三人及び松岡君共にこの一家にあり、宿の主婦は親切に候、松岡君について函館の同人は大に不満を抱き居れり、この事はお目にかゝる日にお話し致さんか、
旭川は随分寒いでせう、ヌタツプカムシユペ山に降雪もありし由、然し馬の手入を卒にさせる見習士官殿は左程苦しくもなからむなど想像いたし侯、草々
  二十一日夜               啄木
 郁雨大兄 御侍史

 


209 九月二十三日札幌より 並木武雄宛

札幌は一昨日(オトツヒ)以来
ひき続きいと天気よし。
夜に入りて冷たき風の
そよ吹けば少し曇れど、
秋の昼、日はほか/\と
丈(タケ)ひくき障子を照し、
寝ころびて物を思へば、
我が頭ボーッとする程
心地よし、流離の人も。

おもしろき君の手紙は
昨日見ぬ。うれしかりしな。
うれしさにほくそ笑みして
読み了へし、我が睫毛(マツゲ)には、
何しかも露の宿りき。
生肌(ナマハダ)の木の香くゆれる
函館よ、いともなつかし。
木をけづる木片(コツパ)大工(ダイク)も
おもしろき恋やするらめ。
新らしく立つ家々に
将来の恋人共が
母(カア)ちゃんに甘へてや居む。
はたや又、我がなつかしき
白村に翡翠白鯨
我が事を語りてあらむ。
なつかしき我が武(ター)ちゃんよ、――
今様(イマヤウ)のハイカラの吊は
敬慕するかはせみの君、
外国(トツクニ)の ラリルレ語(ことば)
酔漢(ヱヒドレ)の 語でいへば
M…M…My dear brethren !――
君が文 読み、くり返し、
我が心 青柳町の
裏長屋、十八番地
ムの八にかへりにけりな。

世の中はあるがまゝにて
怎(ドウ)かなる。心配はなし。
我たとへ、柳に南瓜
なった如、ぶらり/\と
貧乏の重い袋を
痩腰に下げて歩けど、
本職の詩人、はた又
兼職の校正係、
どうかなる世の中なれば
必ずや怎かなるべし。
見よや今、「小樽日々(にち/\)」
「タイムス」は南瓜の如き
蔓(ツル)の手を我にのばしぬ。
来むとする神無月には、
ぶら/\の南瓜の性の
校正子、記者に経上(ヘアガ)り
どちらかへころび行くべし。

一昨日(オトツヒ)はよき日なりけり。
小樽より我が妻せつ子
朝に来て、夕べ帰りぬ。
札幌に貸家なけれど、
親切な宿の主婦(カミ)さん、
同室の一少年と
猫の糞他室へ移し
この室を我らのために
貸すべしと申出でたり。
それよしと裁可したれば、
明後日妻は京子と
鍋、蒲団、鉄瓶、茶盆、
携へて再び来り、
六畳のこの一室に
新家庭作り上ぐべし。
願くは心休めよ。

その節に、我来し後の
君達の好意、残らず
せつ子より聞き候ひぬ。
焼跡の丸井の坂を
荷車にぶらさがりつつ、
 (こゝに又南瓜こそあれ、)
停車場に急ぎゆきけん
君達の姿思ひて
ふき出しぬ。又其心
打忍び、涙流しぬ。

日高なるアイヌの君の
行先ぞ気にこそかかれ。
ひよろ/\の夷希薇の君に
事問へど更にわからず。
四日前に出しやりたる
我が手紙、未だもどらず
返事来ず。今の所は
一向に五里霧中なり。
アノ人の事にしあれば、
瓢然と鳥の如くに
何処へか翔りゆきけめ。
大(タイ)したる事のなからむ。
とはいへど、どうも何だか
気にかゝり、たより待たるる。

北の方旭川なる
丈高き見習士官
遠からず演習のため
札幌に来るといふなる
たより来ぬ。豚鍋つつき
語らむと、これも待たるる。

待たるるはこれのみならず、
願くは兄弟達よ
手紙呉れ。ハガキでもよし。
函館のたよりなき日は
何となく唯我一人
荒れし野に追放されし
思ひして、心クサ/\、
訳もなく我がかたはらの、
猫の糞癪にぞさわれ。

猫の糞可哀相なり、
鼻下の髯、二分(ブ)程のびて
物いへば、いつも滅茶苦茶、
今も猶無官の大夫、
実際は可哀相だよ。

札幌は静けき都、
秋の日のいと温かに
虻の声おとづれ来なる
南窓(ミナミマド)、うつら/\の
我が心、ふと浮気(ウハキ)出(ダ)し、
筆とりて書きたる文(フミ)は
見よやこの五七の調よ、
其昔、髯のホメロス
イリヤドを書きし如くに
すら/\と書きこそしたれ。
札幌は静けき都、夢に来よかし。

   反歌
白村が第二の愛児(マナゴ)笑むらむかはた泣くらむか聞かまほしくも。
なつかしき我が兄弟(オトドヒ)よ我がために文かけ、よしや頭掻かずも。
北の子は独逸語習ふ、いざやいざ我が正等(タダシラ)よ競駒(クラベゴマ)せむ。
うつら/\時すぎゆきて隣室の時計二時うつ、いざ出社せむ。

  四十年九月二十三日
                  札幌にて 啄木拝
 並木兄 御侍史

 

 
 
解説 (ター)ちやん ― 並木武雄 (新谷保人)

はたや又、我がなつかしき
白村に翡翠白鯨
我が事を語りてやあらむ。
なつかしき我が武ちやんよ、
(啄木書簡209/九月二十三日札幌より 並木武雄宛)

並木武雄(1887〜1922) 函館時代からの友人で啄木の晩年特に親交があった。福地順一氏の調査によると、並木武雄は旧姓加藤。明治二十年四月二十六日尾張藩の家臣であった加藤重禄の三男として東京牛込に生まれた。しかし生後まもなく父に死別し、親戚の函館区末広町十五番地で大きい靴商を営む並木鉄太郎の養子となった。明治三十九年三月函館商業学校を卒業した彼は日本郵船株式会杜に入社した。啄木が一家を離散して北海道へ渡ったとき、並木は筆名を翡翠(ひすい)と名乗り苜蓿社同人として活躍していた。彼は明治四十一年四月上京して東京外国語学校本科清語科に入学、東京市牛込区市ケ谷本村の叔父森嶋収六方に下宿したが、釧路より上京した啄木と旧交をあたためその良き相談相手となった。並木は東京外語卒業後三井物産株式会社に入社、大正八年には三井物産函館出張所次長となっている。その後台湾に移り三井物産の台北支店に勤務したが、肺結核にかかりこれが原因で大正十年八月退社した。翌十一年十月二十八日東京大森谷嶋で死んだ。享年三十六歳である。
(石川啄木全集・第七巻/岩城之徳「解題」より)

 札幌に移った啄木は、旭川の野砲第七連隊にいる宮崎大四郎(郁雨)や、静内に隠棲した大島経男(流人)、そして函館に残った並木武雄たちに旺盛な手紙を書きはじめます。これがとても面白い。まるで、函館青柳町の一室で行われていた苜蓿社の集まりの模様が、百年後の私たちの前にテレビ実況中継で放送されているかのよう。とても興奮します。

 今回、書簡209を作っていて、(なんか改めて)苜蓿社の人たちって短命だなぁ…としみじみ思いました。例えば、この詩(書簡)に名前が出てくる吉野章三(白村)は「肺結核のため大正七年三十八歳」の死。翡翠・並木武雄が「三十六歳」。岩崎正(白鯨)が同じく「肺結核のため二十九歳」の若さです。啄木に至っては、数えで二十七歳ですしね。
 長生きしたのが宮崎郁雨と大島流人というのも、なにか興味深いが。以前、宮崎郁雨の章でご紹介した短歌、

 秀才(すさい)みな早く世を捐(す)て凡庸のわれ生きのこるその苜蓿社

が、改めてズーンと身に滲みる平成十九年の秋ではあります。