啄木からの手紙
― 明治四十年九月上旬 ―
 
 


202 九月七日函館より 立花文之助宛

九月七日午後七時、
一時間前お手紙難有落手したり、元吉殿よりの御見舞多謝す、大火の際は誠に愉快に候ひき、生れて初めてあんな大きな火事を見た事とて僕は快哉を連呼して市中を駆け廻り候、暁の三時半頃火の手両方面よりこの青柳町へ押寄せ参りし故、焼けるものと覚悟してそれ/〃\家具など持出し候ひしに、辛うじて無事なるを得たり、函館へ来たお蔭でこんな大火を見るを得、大に満足に御座候
市中の三分の二、目抜きの場所が皆ペロリと焼けてしまつたので、其後の惨状は目もあてられず、戦後の光景もかくやと思はれ候、死者は話よりズツト少なく二十人位ならむ、家を失つたものは数知れず、焼残りの家は大抵二戸以上同居し居り、学校その他にも今猶多数避難民あり、区民の一割半位は既に小樽方面及び内地へ向けて尻に帆かけ逃げてゆきし由、然し函館は遂に死せざりき、着々として善後策は実行されつゝあり
北海道にて人夫を出面取(デメントリ)といふ、目下の函館は出面取と大工の大豊年なり、君の思付き誠に結構々々、男一疋と生れた以上何でも男らしく活動するに限る、虎穴に入らずんば虎子を得ずとは昔からいふ言葉、何でも冒険に限る、君が此機会を利用して一儲けせんとせらるるは大賛成なり
サテ目下当地に於ける労働の報酬は
 出面 一円以上二円位迄
 大工 二円以上三円位迄
にて何れも日払ひなり、君等が来れば多分二円五十銭は欠けぬ事と思ふ、数日前には大工一日四円位なりしが大分他地方より入込みたる故少し安くなりたる由、然し今の所二百三百の大工が毎日来た所で兎ても需用を充たす事能はず、何千人来ても余る事なからむ、確かなる人の話によれば、今後一二年間は大工の日賃一円五十銭以下になる事はあるまじとの事に候、何と有望な訳ではないか、
尤もそれ/〃\請負人とか頭株(あたまかぶ)とかいふものがある事故、当地へ来ても先づさういふ者の手下にならなくては仕事を見つけること容易ならざる由、然し方々に大工募集の広告が出て居るからその辺の事は心配に及ばず、
君一人来るのではあるまいと思ふ、且つ僕は渋民中の大工さん方が皆来て、帰りにウント金貨銀貨を背負うて行かれむことを希望する、だから此手紙着次第誰でもよいから一人先発として大至急来ては如何、そして請負人と相談をきめた上で、アトの人々をば電報で呼び寄せるがよからむ、此議如何に候や、
但し先きに来るものはボンヤリではいけない、君なり周次郎君なりがよからう、請負人へ談判に行く時は僕も一しよに行つてあげる、老人達の寝言などに耳をかさずに早速やつて来給へ、機会といふ奴には前頭にだけ髪があつて後頭は禿だ、一度逃げられてはいくら追ひかけても捕へる事が出来なくなる、成るべく早く来るがよい、来た時は僕の所へ直ぐ訪ねてくれ、宿屋などは馬鹿に高くて駄目だ、狭いけれど一人や二人寝るにはよい、青柳町十八番地は仲々広いが、十八番地をたづねあてたら細い路次の数皆入つて探すべし、さうするとムノ八といふのが乃ち僕のところだ、此際睾丸のある者はグズ/\すべからず 草々頓首
                            啄木拝
 文之助殿
二白、とも角も一人か二人先に来玉へ、そして残りの人々は電報次第すぐ立つによい様にチヤンと準備をして待つてる様にし給へ、

 


203 九月九日函館より 向井永太郎宛

二度目のおハガキ難有拝見仕侯、御厚志の段々多謝、札幌行と決心したり。但し辞表を出して今月分の月給を貰つた上でなければ旅費一文もなき次第、それから学校の方の仕事の都合もあり、且家内一しよにつれて行つて小樽の姉の所に当分置くつもりに候が、そのため多少の時日を要す、二十日頃に行つても社の方でそれ迄待つてくれるでせうか、此段御返事を願上候、右でよければ、学校の方ヤメルに少し掛引有之候間来る十四日に左の電報打つて下さい、電報料お立掛乞ふ 松岡君によろしく
 キマツタ三〇エンスグコイ
  九日午後               石川啄木
 向井永太郎様

 


204 九月十二日函館より 宮崎大四郎宛

天下の代用教員一躍して札幌北門新報の校正係に栄転し、年俸百八十円を賜はる、
明十三日午后七時、君が立つた時と同じプラツトフオームから汽車にのる、
  四十年九月十二日
                    函館 キツツキ
 宮崎大四郎様

 


205 九月十二日函館より 向井永太郎宛

明十三日午後七時尻に帆かけて焼跡を見すつる事に決定。
小樽で一寸下車、兄と一寸会談してその次の汽車でゆく、よろしく願ひます。
  九月十二日
 向井永太郎様

 

 
 
解説 背の高い立見君 ― 向井永太郎 (新谷保人)

 乗客の大半は此処で降りた。私も小形の鞄一つを下げて乗降庭(プラツトホーム)に立つと、二歳になる女の児を抱いた、背の高い立見君の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに来て呉れた。
『君の家は近いね?』
『近い? どうして知つてるね?』
『子供を抱いて来てるぢやないか。』
 改札口から広場に出ると、私は一寸停つて見たい様に思つた。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシアの街
?(なみき)は、蕭条たる秋の雨に遠く/\煙つてゐる。其下を往来(ゆきき)する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いて歩いてる様に見える、蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝(あたり)の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。
『この逵(とほり)は僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。彼処(あそこ)に大きい煉瓦造りが見える。あれは五番館といふのだ。……奈何(どう)だ、気に入らないかね?』
『好い! 何時までも住んでゐたい――』
(石川啄木全集 第七巻/「札幌」)

 大火で職を失った啄木が函館を発ち、札幌駅に降り立ったのは明治四十年九月十四日の午後一時過ぎ。札幌の街は雨模様でした。啄木の小説「札幌」には、駅に迎えに来た「背の高い立見君」として向井永太郎が描かれています。「も一人の友人」は、これも苜蓿社の同人だった松岡政之助(蕗堂)。
 この下宿屋「北七条東四丁目田中サト方」で、啄木は松岡蕗堂の部屋に居候をしていたというのが、一応、札幌時代の啄木の定説です。その根拠は、小説「札幌」のこの部分。

 その翌日、私の妻が来た。既(も)う函館からは引上げて小樽に来てゐるのであるが、さう何時までも姉の家に厄介になつても居られないので、それやこれやの打合せに来たのだ。私の子供は生れてやつと九ヶ月にしかならなかつたが、来ると直ぐ忘れないでゐて私に手を延べた。
 が、心がけては居たのだが、空家(あきや)、せめて二間位の空間と思つても、それすらありさうになかつた。困つて了つて宿の内儀に話をすると、
『然うですねえ。それでは恁(か)うなすつちや如何でせう。貴方のお室は八畳ですから、お家の見付かるまで当分此処で我慢をなさる事になすつては? さうなれば目形さんには別の室に移つて頂くことに致しますから。何で御座いませう、貴方方もお三人限(きり)……?』
『まだ年老つた母があります。外にもあるんですが、それは今直ぐ来なくても可いんです。』
『マア然うですか、阿母(おっか)さんも御一緒に! ……それにしても立見さんの方よりは窮屈でない訳ですわねえ、当分の事ですから。』
 話はそれに決つて、妻は二三日中に家財を纏めて来ることになつた。女同志は重宝なもので、妻は既う内儀と種々(いろ/\)生計向(くらしむき)の話などをしてゐる。
(石川啄木全集 第七巻/「札幌」)

 そうかなぁ?と私は思うのです。そんなに、フィクションである小説「札幌」の記述を真に受けていいのかなぁ…と。(啄木は日記ですら操作しますよ)

 「内儀」として描かれている田中サトの孫・田中唯三氏は、その手記の中で、サトが重い口を開いて啄木の印象を語った言葉を残しています。

「啄木のことは単行本や雑誌などで存じておりました。吉田孤羊の書いた本に札幌時代―田中家云々を読んだとき、釜山に居ったサトに話しましたら、そのような気がするという程度でした。釜山から引揚げて私の処に半年程度滞在していたことがあります。また啄木の札幌時代の話をした処、向井さんという人が下宿していて、そこへ時々石川さんと云う人が訪ねてきた。おしゃれで一寸キザの人であった。金銭のことは大分ルーズな処があり周囲の人々には相当迷惑をかけた様だったと云うて余り好感をもっていなかった様でした。只、それ程偉くなる人だったら何か書いてもらえばよかったと笑っていました」
(好川之範著「啄木の札幌放浪」より)

 この、田中サトの言葉をどうとるかで、かなり啄木の札幌イメージは変わってくるのでしょうね。とはいえ、この好川之範氏の本は、啄木の明治四十年北海道漂泊を考える際には重要な一冊です。ヒットも数多い。例えば、向井夷希微の名誉回復を果たしているところなどは秀逸。

 啄木の書いた書簡(215/十月二日小樽より岩崎正宛)などの影響なのか、ファンまで一緒になって向井夷希微を過小評価するような風潮はもう止めた方がいいと思います。そのように苜蓿社同人をとらえるべきではない。この明治四十年九月時点では同人たちは横一線だと思います。もちろん、啄木も含めて。啄木だけが文学をやっていたなんていうのは、ファンの勝手な思い上がりでしょう。

向井永太郎(1881〜1944) 筆名夷希微(いきび)。啄木の北海道時代の友人。明治三十三年三月鹿児島の中学造士館を卒業、上京して一高に進学、その後早大文科に転じたが中退し、函館英語学校の教師となった。啄木と交遊を持ったのは、明治四十年五月苜蓿社に啄木を迎えてからであるが、六月北海道庁林務課の事業手として札幌に移ったため、函館での交友は短期間に終った。しかし、この年八月二十五日の函館の大火で職を失った啄木のために奔走、札幌の北門新報杜に校正係として赴任させた。向井は大正六年三月、道庁を辞し、その後大正八年五月横浜市の書記として赴任、五年間動務したのち退職して、大正十五年四月から春秋社の編集部員となり、昭和五年十月まで働いたが、以後は故郷の北海道根室に帰って測量師となり、また森林調査員として、原始林の調査に余生を捧げた。向井夷希微の詩人としての半生を示す詩集に、『よみがへり』(大六)『胡馬の嘶き』(大七)がある。
(石川啄木全集 第七巻/岩城之徳編「解題」より)