啄木からの手紙
― 明治四十年八月下旬(函館大火) ―
 
 


200 八月二十九日函館より 大島経男宛

今迄の御無音は罪万死に当る、実は其後其日/\に心変り、筆とる心地にならざりし故に候、実際気儘な話に候へ共、性分と思つてお許し下され度候、月の初め津軽の海を渡つて野辺地迄行き老母をつれてまゐり候、間もなく小樽にありし小妹も脚気で転地といふ名で其実矢張り自分の家庭が恋しがつてまゐり候、一家かくて大に賑々しく相成候ふに従つて小生の病的反逆心の発作も稀になる様になり候へど、これ或は家庭人を殺す所以なるやも知れず候、いのち! いのち! いのちの発展が休息した時、世界滅尽の夕が来るべく候、少なくとも自分は「人らしい顔」の男になるべく候、小生は死なぬ覚悟に候、何をいつてるやら解らず、
十八日より感ずる所あつて日々新聞社に入り、大に面白がり珍しがり居候ひし所去る廿五日の夜は、小生らの当地に於ける一切の企画を画餅に帰せしめ候、既に通信をえられたる事と存候が同夜十時二十分東川町より出火、折柄の猛烈なる山背に煽られて天下無類の壮観を極め六時間にして、函館五分の四、戸数一万五千戸を焼き尽し候、ナント/\、小生生れてよりアレ位ハンドルングの雄大にして、悲壮を極め、且つ意味深甚なる芝居を見た事無之候、光景は何人も形容すること能はじ、火なる哉、火なる哉、函館の根本的革命は真赤な火によつて成し遂げられ侯、残れるは多く云ふに足らぬ貧乏町に候へば、先づ以て過去の函館其物が世界より焼き飛ばされたりと思召被下度候、一夜一億円の仕事とは一寸人間共に出来ぬ事に候、刻一刻に自然に背ける函館が、一本のマツチによつてペロリと消えて了つたなど、惘(あき)れて物がいへず、自然が當む深刻なる滑稽は之也、混雑といへば混雑、惨状といへば惨状、実は人間の語でアノ夜の光最は云ひ表されぬに候、狂へる雲、狂へる風、狂へる火、狂へる人、狂へる巡査、狂へる犬、イヤハヤ、アノ狂へる雲の上には狂へる神が狂へる下界の物音に浮気を起して舞踏でもやつて居た事に候ふべし、狂はざりし者は、家内の狼狽を鎮めむと火事最中に盆踊をやつた小生位のものに候ふべし、実はこれとても第三者から見たら狂へる盆踊なりしやも知れず、学校で残つたのは住吉東川若松高砂の四校、アトは皆焼けたり、女学校など両遊廓と共に一つも残らず、役所で残つたのは区役所税務署裁判所測候所税関米国領事館の六、アトは支庁も黒犬の警察も郵便局も英露領事館も何もかも灰、新聞は北海一つ残り候、銀行も皆やけ郵船会社など倉庫諸共昇天、家を失へるもの六万余、大抵は学校とか寺院とかへ入り込みたり、区役所で黒い握り飯を喰はせ居候、同人では並木君全焼、同君アノ夜当直にて、大働き、暑くて居れなくなつて舟に乗りて逃げしに舟やけて沈没、海中を泳いでとう/\「助けて呉れ」と呼びし由、艀に助けられて翌日は死人の様な顔色、小生の所で飯食ふ迄は生きた人と思はれざりし、貴下の居られし林中の家は、下の遺愛のお婆さんの家はやけしもとう/\助かり候、小生も午前三時頃まで市中を飛んで歩き候ひも青柳町が二方面から火の手に攻め立てられし故、不止得公園裡の松林に老母や小児をやり一番おくれて道具も持ち出し候ひしも運か不運か焼け残り、人が焼けた時自分がアンケラカンとして本を読んでゐるのも気の毒に候、白村白鯨両君とも矢張焼けず、
函毎にやり置き、未だ同杜の都合にて印刷せざりし第八冊の原稿全部羽化昇天、紅苜蓿は矢張り貴下が居られなければ生きる事出来なかりしと見え候、これにて函館区と運命を共にし世界より消え去り候ふ事と思召下され度候、
区民の一割は既に小樽方面及び内地へ向けて尻に帆かけたり、永持軽口先生も焼き出されて早くも東京に退却、然し火事は面白い者、末広町の豪商も銀行の頭取も何もかも、寝巻に兵児幣のまゝで逃げ出せし事とて目下の所小生等と同等にて火事は財産よりも主として階級を焼きたる様に候、神は平等を好み給ふなり歟、兎も魚函館はモハヤ今迄通りに恢復の見込今後十年間はなかるべく、小樽益々全盛なるべし。当地にては我々の企画一分一厘も希望を剰さず、一昨廿七日向井君道庁より出張にて来られ候、同君の家もやけざりし、同じ日午後四時大隅丸にて松岡君帰函、目ン玉を白黒せられ候、茲に於て相談一決、
  苜蓿社同人は本年中に札幌に引上げの事!
向井君は明後三十一日数通の履歴書を携へて帰札せらるべく、松岡君は矢張同日頃一先づ小樽の知人の許へ避難せらるる筈、(因(ちなみ)に同君は兎も角故郷の方片附けて一人で来られしに候)小生は向井君の運動効を奏し次第先づ第一に札幌に入り雑誌の準備に取かかり、出来うべくんば新聞を一つ占領して後日の用に供すべく、其次は吉野君細君の御産((今迄延引)が済んだら矢張単身出札、細君と子供らは半年間仙台に帰す予定、(同細君は琴の名人故仙台で半年復習して来て札幌で琴の楽堂をひらく筈)岩崎君は九月局の方で判任官になる筈の由故、その上にて出札の事、並木君はまだ家の方ではアンコの地位にて自由がきかぬ故離れてゐて援助の事、雑誌は必ず来年一月迄に出す事、万事積極的方針で今度の火事の如く暴れ出す事…………以上は集つて正式に相談した訳ではなく候へど、この六畳室で決せられたる善後策の要項に候、敗軍の将は馬から落ちても意気に変りはなく、軍配団扇のカケ引き穴可賢、目下一番困り候ふは、米屋もやけ炭屋もやけ通帳ドレもコレも用をなさず立秋に入りて既に二旬、懐中秋風にて物価騰貴、スキナ煙草もロクにのめぬ一事に候、実際今後は焼けぬ者の方が万事恩典洩れにて困るべく候、この点から考へても焼けた方が痛快なりし者をと愚痴申候、呵々、
サテ街をあるけば方々にて、自分が一寸でも教へた生徒に逢ひ、聞けば大抵焼けたと申候、
小生無暗に無暗に…………
光明の裏面に暗黒あり、浮気の後には後悔が来る所以、昨日一日の雨にて全市の焼跡劫初の寂寞にかへり申候、出でて望めば宛然死の都也、戦後の光景とはこんなものにや、実に名状しがたき淋しさに候、蓋し函館は死したる也、死んだ都を御覧になりたくば、否々、世界一の名優のやつた大芝居を見なかりしのが残念に候はゞ、この焼跡見にお出なされ度候、魚油肥料の倉庫今日にいたるも猶煙を絶たず候、草々頓首
  四十年八月二十九日夜            啄木拝
 大島経男様
(記し残し候、万平君の臥竜窟も焼け申候、見舞にゆき候処、焼跡より何か拾ひ居候ひき挨拶例の如し)
 


201 八月二十九日函館より 宮崎大四郎宛

つかひ残りの巻紙三尺五寸見出したから此手紙をかく 廿九日夜半 啄木
 郁雨大兄 御侍史
サテ君よ、廿五日の夜の十時少し過ぎ、烈しい山背の風が一本のマツチから起つた火を煽り煽つてとう/\六時間のうちに函館五分ノ四、戸数一万五千をペロリと焼いて、そして何処かへ行つてしまつた。出火は君の家の近所(君の家は無事)函館目抜の町と役所と学校を皆舐めて山背泊まで駆足で行つたのだ、僕火事最中盆踊をやつて士気を鼓舞したため辛うじて焼けずに済み、吉野君岩崎君丸谷君も無事、並木君はやけた、詳しい通信は別に其人がある事と思ふから、敗軍の将たる僕は僕の思ふ事だけをかく
函館は死んだのだと僕は思ふ、八年や十年で恢復は出来ぬ、君の記憶にある函館は、かのバビロンの都城一夜に地上から消えたと同じに矢張一夜にして世界の外へ焼き飛ばされたのだ
紅苜蓿は函館と運命を共にして遂に羽化昇天した、実際函館に於ける我らの企画はモハヤ一分一厘の希望をもあまさず
区民の一割は既に小樽及び内地に向つて尻に帆かけたよ、小樽は益々全盛! 君は一番残念がられる事と思ふ、僕も残念だ、
然し火事は愉快であつた、生れてからあれだけの大芝居を見た事がない、雲も狂ひ風も狂ひ火も狂ひ人も狂ひ巡査も狂ひ犬も狂ひ……狂へる雲の[上]には多分狂へる神が狂へる下界の物音に浮気を起して舞踏して居たであらう、僕が家内の狼狽を鎮めた盆踊も或は狂かもしれぬ、然し僕だけは確かに何人よりも沈着であつたよ、火は函館に根本的革命を齎らしたのだね、
雑誌八号の原稿、函毎にあつてまだ印刷に取かゝらなかつたのが全部天国に上れり
向井君道庁からの出張で一昨日来た同じ日松岡君も来た、本年中に残党一同札幌にゆく事に決した、願くは君も余り残念がらずに同情してくれ玉へ、そして君も除隊になったら出来うべくんば札幌に居る様にしてくれ玉へ、向井君は明後日僕及び松岡君の履歴書を持つて帰札する筈、白村白鯨両兄共本年中にゆく筈、松岡君は不取敢両三日中に小樽の知人へ身を寄せる筈、札幌で来年一月迄に必ず再挙を企てる決心、敗軍の将啄木の心事を諒とし玉へ、
僕は多分九月中にはゆけるかと思ふ、
何しろ学校の方はドーセ二部教授になるのだから代用はお免にきまつてるし、去る十八日から当分秘密で日々新聞へ行つて月曜文壇を起したりしてゐたが、それもやけた、米屋も炭屋も何もかもやけて通帳全部キカナクなり物価騰貴、焼けぬお蔭で万事恩典に預からぬし、尻に帆かける外になし兮、煙草もロクに飲めぬよ、然しやけた人は可哀相だ、実に可哀相だ
焼跡は淋しい。今日君の社友二名紹介のハガキ見て何とも云へぬ気がした、君が居てくれたらと思ふ、君の写真アノ写真ハサミヘハサンデ柱にかけ京ちやんに毎日オヂサンは何処といつて指ざさして遊んでるよ、
札幌では大にやり出す決心!
然しコッチの事は心配し給ふな、大丈夫だよ、可成早く帰つてくれ給へ、君、
                          紙つきた
 

 

※ この「啄木の<北海道>地図」は、昨年秋、市立小樽文学館でひらかれた特別展「石川啄木と小樽日報社」展カタログに掲載された文章です。短い文章故、カタログに参考文献を記すスペースはありませんでしたが、この文章を書くにあたっては武井静夫著「後志の文学」から多くの示唆を受けましたことをここに特記し、お礼を申し上げます。(新谷記/2008.4.28)
 
 
 
 
啄木の「北海道」地図
 
新谷保人(小樽啄木会会員)
 
 1.札幌市

苜蓿社同人は本年中に札幌に引上げの事!
(啄木書簡
200 明治四十年八月二十九日函館より 大島経男宛)

 文芸同人誌「紅苜蓿」編集長の座を啄木に譲り、静内の山中に隠棲した大島経男(流人)。その「山に入りにき/神のごとき友」流人に宛てて、啄木は、函館大火直後の八月二十九日書簡でこんな一行を書いている。函館に残った苜蓿社同人による緊急協議の末の結論は「札幌に引き上げ」であった。皆で約束していた新雑誌「北海少年」の旗揚げも札幌と決まったのである。しかしこの時、啄木はその札幌を知らない。
 この明治四十年当時、啄木の知っている「北海道」とは函館と小樽だけであった。それは、内地の多くの人間が描く北海道地図と同じく、啄木の北海道地図もまた「島」状の様相を呈していたことを意味する。海上交通、つまり船での渡道がそのイメージの根底にある。東京を起点として考えれば、(横浜)―函館―小樽―留萌―稚内―樺太のすべてが「北海道」であるといったように。反対ルートでも同じ。(横浜)―室蘭―静内―釧路―厚岸―根室―千島となり、当然、ここには「札幌」という街は入らない。
 札幌や空知や旭川というのは、官や軍隊が原生林を拓きつくりあげた人工の街であった。そこに人は集まり賑わってはいるが、函館や小樽などの港町・貿易港が持っているナチュラルな街の佇まいはない。馬車や鉄道が入る以前に人間が歩いて街路を踏み固め形成された街とは異質な街なのである。
 このことは、啄木の明治四十年の北海道漂泊を考える場合、重大なキーポイントになってくる。札幌や、それ以降の空知〜旭川〜釧路といった街の登場は、啄木の「北海道」認識に大きな変化があったことを示すからだ。

 みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな (一握の砂)

 車窓からこれら人工の街を詠むという啄木独特のスタイル。(厳密にいうと、もう一人「宮沢賢治」もいるが…) これらの人工都市をも含む「大陸」様の「北海道」が啄木の眼に入って来だしたのがこの明治四十年であった。もちろん、それを可能にしたのが鉄道であったことはいうまでもない。だからこそ、啄木の「北海道」放浪の終着地は、樺太ではなく、当時、鉄路の終着駅であった釧路だったのだと私は思う。
 
 2.北海道鉄道

 予感は、すでに三年前の小樽にあった。
 明治三十七年十月一日、上京のための金策の旅に出た十九歳の啄木は、函館からドイツ船ヘレーン号に乗って海路小樽に向かう。当時、小樽では姉とらの夫であった義兄山本千三郎が小樽中央駅の駅長を務めていたのである。
 ところが、十月二日、陸に上がって姉の家を訪ねてみると、とらは病床で呻吟していた。みとりの人たちが枕元に居並ぶ状態であったという。はからずも啄木の来樽はとらの病気見舞、看病のための訪問となってしまった。啄木はそのまま山本千三郎の家に滞在し続け、看病から解放されたのは、じつに半月後の九月十八日だった。

生は去月末旬より三週間許り北海の秋色に旅して二三日前漸く帰村したり、渡島・後志・胆振の山また海、我をして送迎に遑(いとま)なからしめたる蝦夷が島根の詩趣は我これを携へて、都門兄に逢ふの日の土産とせん。
(啄木書簡
89 明治三十七年十月二十三日渋民村より 金田一京助宛)

 なぜ、ここに「後志・胆振」の言葉が出てくるのか? ここには、啄木と北海道の関係史における大事件が起こっているのである。啄木は船で函館に戻ったのではなかった。汽車で函館へ戻ったのである。
 啄木が小樽を離れる三日前の明治三十七年十月十五日は、北海道の歴史にとっても革命的な日であった。熱郛(ねっぷ)−小沢(こざわ)間の最後の鉄道施設工事が完了して、この日、待望の小樽中央―函館間の北海道鉄道が全線開通したのである。後の国鉄函館本線の前身である北海道鉄道の開通三日目にして啄木は車上の人となった。
 おそらく、啄木は大陸としての北海道を発見した内地の文学者第一号ではないか。啄木の中で、それまで海路としてのイメージでしか描くことができなかった「函館」「小樽」認識が急転換して行く。北海道鉄道という背骨が通ったことにより、啄木の意識は「函館―小樽(札幌)」という内陸的なイメージを駆使しても「北海道」を描くことがかなり可能になって行った。
 晩年「一握の砂/忘れがたき人人」などで開花する下地ができあがりつつあったのである。もし、啄木が汽車に乗らず船で函館に戻ったとしたなら、幸田露伴「突貫紀行」レベルの文学で終わったことであろう。

 真夜中の/倶知安駅に下りゆきし/女の鬢の古き疵あと (一握の砂)

 三年後、大火の焼跡の残る函館を後にして札幌に向かった啄木が使うのも、当然、この北海道鉄道の夜汽車であった。小樽・札幌の新天地に職を求める罹災者でごった返す車内と、漆黒の闇につつまれた後志の山々の対比がとても美しい。闇の向こうにようやく見えてきた街の灯りが倶知安だったのだろうか。鬢に「古き疵あと」をもつ女が降りたつという情景には「真夜中の倶知安駅」でなければならなかったのだろう。そして、ついに、啄木の歌に、函館でも小樽でもない、新しい「北海道」の街の名が登場しはじめた。
 
 3.苜蓿社

 啄木の「北海道」地図を大きく塗りかえたものとして、もうひとつ、苜蓿社の存在がある。
 この年、道内を漂泊していたのは啄木ばかりではない。苜蓿社同人のほとんどが目まぐるしく動いている。この啄木が札幌に入る明治四十年九月の時点で見ても、宮崎大四郎(郁雨)は軍隊に徴兵されて旭川駐屯地にいるし、大島流人はまだ静内の山に引き隠ったままだ。
 九月十四日、札幌駅に啄木を迎えに来ることになる向井永太郎(夷希微)はすでに六月から北海道庁林務課の事業手として札幌に移っている。大火の報を聞いて函館に駆けつけ、「札幌に引上げの事!」の決議にも深く関わった。決議に呼応したものか、後日小樽日報で一緒に仕事をすることになる沢田信太郎(天峰)も、函館大火を機に十月札幌に移り、向井と同じ道庁に勤め始めている。

小生目下の問題はいかにして生活を安全にしうべきかなり、函館を立つ日与謝野氏より東京に来ては如何との手紙ありしが、迷へる児は未だ返事出さずに居候、行くにしても母と妹は小樽へ置くとして妻子をつれて行つては困る事は同じ也、どうすればよいのか天下無茶苦茶なり、
(啄木書簡
209 明治四十年九月十九日札幌より 宮崎大四郎宛)

 九月以降、啄木は全道に散らばった苜蓿社同人や、函館に残った同人たち(岩崎正、吉野章三、並木武雄ら)に向けて手紙を書くのである。また、書簡の間には、宮崎郁雨が旭川から休暇の合間を縫って小樽に訪ねてきたり(10/12)、沢田天峰を道庁から小樽日報編集長へ引き抜いたり(11/20)といった直接的な交流も続いている。苜蓿社同人とのつながりは私たちが思っている以上に深い。同人たちへの想いの強さが、啄木の「北海道」認識を深めて行くことになる。
 十七歳の頃ならば喜んで乗ったであろう与謝野鉄幹の上京への誘いにも、今度ばかりは簡単に乗らない啄木の躊躇に幾分の成長を感じる。妻子があるということは大変なことなのだ。帰京を選ばず、小樽を選んだことから、ついに「石川啄木」という物語が決定的に動き出したとも私には感じられる。
 明治四十年九月の札幌・小樽から始まる啄木の旺盛な手紙はとてもスリリングだ。函館・青柳町の苜蓿社一室で渦巻いていた青年たちの「はてしなき議論」が、全道規模のスケールになって、今、私たちの眼前に立ち現れるようになった。「日高なるアイヌの君」「北の方旭川なる丈高き見習士官」「我がなつかしき白村に翡翠白鯨」「なつかしき我が武(ター)ちゃんよ、―――」。
 啄木の「北海道」地図がどんどん変容して行く。それは、とりもなおさず、二十二歳の青年「石川一」の急激な変貌をも予告しているのではないか。