啄木からの手紙
― 明治四十年八月上旬 ―
 
 

 
197 八月六日函館より 沼田末次宛

拝啓 老母在郷中はいろ/\御世話被下、剰(あまつさ)へ御地出発の際は御餞別まで忝(かたじけな)うし候段誠に難有茲に謹んで御礼申上候也
小生去る三日に野辺地迄迎へにゆき、四日青森より石狩丸に投乗し、午后四時無事着函仕候、老母は船中にて酔ひも不致着函後も頗る壮健に候間何卒御安心被下度願上候
  六日朝

 
198 八月八日函館より 宮崎大四郎宛


お別れしてより既に十二日、暑さが日増に加はつて、僕の原稿紙縞の単衣も余程キタナク相成候、其間、天下無類の電報一通、ハガキ二葉、封書二通、其最後の一通は只今拝見仕候、然も僕の方で書くのが今初めて也、怠けたるかな/\、怠け候ふ理由は後文を読んで御自得被遊度、僕自身では御無沙汰の御申訳などと人らしき顔は不致候、
兄に別れての夜は、総勢にてをひやかし乍ら帰り候ひき、浮出しの蟹の模様ある土瓶一つ、出刃庖丁一挺買ひ求め候ふに、白鯨君ガラにもない元気にて値切ッてくれ、五銭だけ儲け候、其場の光景思出しても滑稽に候、値切ればまけるとは、何と世の中の事面白く候はずや、此夜白鯨君手本を示して後、世の中が不正直だから僕等も大に不正直にやらうと云ふ事に、我等一同以心伝心に一決、其後僕が或る古道具屋にて食卓一台購ひ候節、早速舶来の不正直をふりかざし、一円二十銭といふのを九十銭に負けらせ、空前の大成功をいたし候、呵々、此風で行ッたら、早晩僕等も蔵を立てる様になるかも知れずと心配いたし居候、
翌二十八日の夕方、並木切符君まゐり、入口にて立話致居侯処へ〒脚夫が来て、石川タクボクといふのは此処ですかと申候、然りと答へ候処、何故表札を出して置かんかと叱りとばされ、こゝに書いてあると威張り返し候ふに、あひにく硝子戸は開けて置いた場合故、外からは例の石川寓が見えなかッたのに候、僕大いにテレテ、一体何用ですと申候に、一通の電報を渡し、名刺なりとも貼り附けて置かなくちやいかんと捨台詞を残して退参いたし候、サテ手に残ッたものは幾何見ても電報也、電報といへば直ちに非常事件を連想する僕の非文明的な頭脳は、少なからず狼狽いたし候、剰へ発信人はとあり、僕の妹の名の頭字もに候、不取敢封きッて見候ふに、恁麼長い電報は僕今迄見た事なし、一生に唯一度といふ文句がすぐ目につぎ候、流石の僕も目を皿の如くせざるをえず候ひき、一度読んで何が何だか不可解、二度目にはハハア歌だナと解り、も光子のではなくして宮崎のな事判明いたし候、然し電文に間違ありたるため、其道に通暁せる白鯨君の説明をうる迄は、仲々意味がとれず候ひき、但し、大不平の何なりしやは、其後兄のお手紙で大笑ひする迄は矢張想像もつかず候ひき、電文は左の如し、曰く、
一セウニタタ一ドミルフンマン六コトニアリヌヲカシカラスヤダイフヘイコカゲヲセヲムネンミナイルレトモユルナツトニクニム
岩見沢の和田氏には早速雑誌発送致させ候、原稿不足にて三十一日に〆切ルをえず、翌日も矢張駄目、但しかの写真は一日の夕刻に出来上り、又同日日高国下下方なる大嶋氏より手紙まゐり候ひき、大嶋氏の共同運輸丸はアノ日の翌日の午后三時になッて初めて出帆したる由、アキレ蛙とは此事此事、
二日の午后八時には、僕玄海丸の一等船室に在りたり、此行並木君の周旋による、一等室の美々しさには、僕少なからず浮れ出し、遂々柄にもなく葡萄酒を飲んで、一人で天下太平をキメ込み申候、但しボーイにコンミツションをやッたので左程の失敗も不致候間御安心下され度候、翌三日午前三時抜錨、九時青森上陸、十一時汽車に乗りて、車窓より初めて蝉の声をきき、又青田の風を吸ひ申候、感多少に候ひき、小湊駅に下車して、中学時代よりの友、今度岡山のハイアースクールを卒業して来た瀬川藻外を訪ね、焼くが如き炎熱に汗流し乍らビールの杯をうち合せ、夕刻再び車中の人となりて野辺地に下り、凹凸極まりもなき道を腕車にゆられ乍ら、常光寺と申す禅院にまゐり候、八十二歳なる老僧は乃ち我が伯父君にして、父も此処にあり、老母は僕よりも早く着し居候ひき、其夜の心地は宜敷お察し下され度候、翌早朝母と共に出発、青森より石狩丸の二等客と成り、海上極めて平穏、僕も母も平気で昼飯を済し、午后四時無事帰函。これにて僕の身辺漸やく少しく纏まりがつき申候、
帰り来て当惑いたし候ふは、原稿がまだ出来て居なかッた事に候、
翌五日長きお消息うれしく拝見いたし候、目のあたり逢ふ様にてホントに嬉しかりし、麦飯の如く味なく洋服の如く窮屈なる御生活はお察し申上候。出発の前夜の出来事特にお知らせ下され候ふには、人事ならず思はれ候。我等は何日までも今の様に、悟ッた風の顔付などはせず、人生の深き/\匂ひと味ひに酔ふて居たきものに候………………何だか理窟めいた事が云ッて見たくなり候、然し今日はやめる、
人の原稿を作りかへて長くしたりなどして、昨夜一先大体の編輯を終り、今日午前小野活版所に渡してまゐり候、十六日に発行の予定に候、実際今度は苦心致し候、兄の歌、あとにて熟読低誦いたし候ふに、想は独特也、但し其想の云ひ現はし方が少なからず横路に踏み入れるの怨みあり、兄にして一旦横路から出て本道を行かれたならそれこそ大変なことになるべく候、矢張近頃の作風を少し御参考迄に見らるるがよからむ、兄がそんなことで怒る馬鹿でないことを承知の僕故、同人と鳩首して苦心の結果、縦横にナヲシ候、名前は生田白桃に致候、
社の前途について大に考ふる所あり、口先だけの発展は到底効力なき故、今度愈々積極的方針を取ることに致し、既に同人及び沢田氏等の賛同をえ候、今月の号にて予告する筈に候、兄も無論賛成して下さる事と信じ申候、第一は、基金募集の広告を雑誌に出して区内の金持を説き廻る事、第二はその金を初めから無いもののつもりにて、九月十五日紙数百頁以上の特別号を出し、爾後引つづき定価十五銭に値上の事、十月以後も毎号六十頁以上の事、社友(男も女も)をつのる事、九月の大冊発行後四五日にして例の音楽会をひらく事、雑誌は部数を多くし、先づ第一に東京へ百部、札幌小樽へ各三十部販路を拡張する事、………等に候、若し金が少しも集まらなかッたら、今迄通りで継続し音楽会だけやる事、そして兄の帰函を待ッて例の「北海少年」を初める事、
成功したら大に威張る事、
失敗しても大に威張る事、
僕にはこれでも仲々元気がある。
特別号に原稿集まる予算あり、若し集まらなかッたら僕一人ででも百頁二百頁は書く。君も三十一日迄に是非何かかいてくれ給へ、巻頭にはイプセンの社会劇でも一つ訳して出さうかと存候、兎に角大に気を吐かむとする也。計画だけでも痛快に候はずや。
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只今小樽の姉の許に居り候ふ小妹より、脚気にて転地の必要あり、九日の朝七時行くといふハガキ参り候、噫君々、世の中/\、この狭い家に四人とは、サテ/\夏は暑苦しいものに候ふかな、お天頭様は僕を餓死せしめる訳でもあるまいが………………桑原々々、
岩崎君の脚気は兄の薬にて大方よし、吉野君の細君の一件は今日か明日かと待ち居候、十日前ならむ、妻も健全、京ちやんは日毎に可愛くなる、頓首、
  八月八日午后三時擱筆、           啄木生
 郁雨大兄 御侍史

お別れの間際に申上げし事、是非/\御決心あらむ事、心より祈居候、姉君へのお手紙は既に投函致候、妻よりよろしくと申出候、

 
199 八月十一日函館より 宮崎大四郎宛

                      青柳町二十五  吉野君
                      同  三十六  岩崎君
                      日高国下下方  大島君
今日午前十一時頃、九日附のしめやかなるお手紙まゐり、くり返し候ふほどに何とはなくうら悲しくなりて、半日物思ひに耽り申候、夕方、母と妻と京子と、脚気のため小樽より転地し来りたる小妹との四人を岡山孤児院の慈善活動写真会へ出しやり、私は沢田岩崎両兄と共に大森浜へまゐり、生れて初めて首まで海の水に這入ッて見候ふに、体の具合急に軽く相成、未だ嘗て知らぬ「健康の心地」を感じ、帰りて来て冷水にて顔や手足を拭き、燈火つけ候ふに、狭き乍らも唯一人は何となく淋しく、復又しめやかなる心持と相成申候。孤檠(こけい)をかゝげて此筆をとる、
これ前の手紙は御覧になりたるならむと存候、大嶋氏よりは唯一度しか消息無之候、また例の学校の方の一件も何の様子も相解り不申候、大島氏の方より直接交渉せられつゝあるならむかと存居候、
私とても妻に心配かけたくなきは山々に候、殊には母も参り候ふ事故、なるべくそんな気振も見せたくなく候、私、痩せた割合に元気よく候へど、矢張人間に御座候、人間に候へば人間らしく様々心配も致候、しかし、しかし、何とすればよいやら……………お察し下され度候。母を迎へにまゐり候ひしため英国艦隊で金儲けする機会も失ひ申候。今月は大に倹約させ居り候へど、十二円で親子五人は軽業の如く候、万朝の十円小説にでも一つ出して見ようかなど考居候、
トンダ弱音吹いて遠方の兄にまで心配かけ相すまず候、松岡君よりは近頃僕らの方へ誰へも消息無之候、或は本月中に再渡道の事むづかしかるべくやなど想像いたし居候、
先日吉野君当直の夜、東川の学校にて蚊に喰はれ乍ら岩崎君と三人にて悲しき話いたし、三人にて世の中、世の中、と申候、実に世の中に候。私共たとへ地の涯へ逃げ候ふともこの世の中が追ひかけて参るべく候、一度思を人の世の事に馳せ、又、自分の将来の事など考へ候ふ時、微力なる我等はたゞ噫世の中だ、と申す外に何の言葉もこれなく候、或は我等死ぬ時まで此語を繰返さねばならぬかも知れず、無暗に悲しくなり候
筆投げ出して煙草のみ居候ふうちに、こんな事ではいかぬと感じ申候、兎に角何かやるべく候、出来るだけ働くべく候、そしたら何とかなるならむと存候、何とかなるといふのは人間の最もよい考へだとマアテルリンクが申候由、よい考へか悪い考へかは知らぬが、然し仲々心細い考へに候、
何だか今夜はかくのがイヤになり候、蚊が沢山くる、丸谷君はその後一度も来ぬ、吉野君の細君まだやらかさぬ、或は今夜あたりかも知れぬ、写真早くくれ玉へ、早々頓首
  十一日午后九時                  啄木生
 郁雨大兄
二白 雑誌、小野から原稿かへして来た、四頁組んでみたが、怎(どう)しても字が足らなくてダメだから今度だけ函毎へやつてくれとの事、しかたなしにまた函毎へやり候が、多分二十日頃に出来るかと思ふ、此処で活版所をひらくと儲かるよ君、現に教育会雑誌、会議所の月報などは充分ひきうけてやる見込がある、そしたら紅苜蓿も思ふ存分やれる、北海少年も出せる、然し資本がマア三千円かゝる、矢張空想だ、呵々今日どうも僕は世の中から辞職したいやうな気がしていかんサヨナラ 早く帰つてくれ玉へ君。君が居ないとさびしいよ、グズ/\してゐるうちに年とつて死ぬ、死んではツマラヌ、唯死んではツマラヌ、然し手も足も出せぬ、生活の条件が安固でないと書きたいものも書けぬ、ダカラ世の中から辞職したくなる、

 
 
解説 小樽啄木会と郁雨 宮崎郁雨 <2> (新谷保人)
 
 小樽啄木会の発端は、大正2年4月13日、「桃太郎団子」で有志数名が集まって開いた啄木忌日会とか、大正3年4月13日に「日の丸パーラー」で開かれた啄木追悼会とか、おそろしく古いものです。しかし、実質的な「会」としてのスタートを考えた場合は、昭和21年春、啄木遺稿集出版のため小樽のいろいろな文化人グループが合流しはじめたことが「小樽啄木会」形成のきっかけといっていいでしょう。

 昭和21・春 ◎小樽図書館に小樽啄木会の芽体を生ず。 (「小樽啄木会沿革史」より)

 図書館に芽体を生じたのは、当時の図書館長が寺山吉平だったからかもしれません。そこへ、古くからの文学愛好者の集まりであった「啓明会」が合流します。「啓明会」主宰者はもちろん高田紅果。「書物同好会」の須藤昌邦、「新星社」社長の石川八郎など、錚々たる面々が集まってきます。そうしてできた啄木遺稿集の名は、「秘められし啄木遺稿」。昭和22年2月17日の発行でした。

 昭和22・2・9
◎「秘められし啄木遺稿」小樽啄木会編、新星社刊(昭22・2・17、27円)の出版記念会を図書館階上で行った。高田氏の講演あり。函館より宮崎郁雨氏(啄木義兄)は啄木の書簡を持参して講演、この書簡は小樽の南部せんべい屋の借間より函館青柳町の岩崎正に宛てたもの。岡田弘子氏(函館図書館長・岡田健三氏娘)列席。常連の他に20余名。
◎同日、図書館階上にて啄木遺墨展あり。函館図書館長岡田氏及び司書田畑幸三郎氏持参。

 宮崎郁雨が持ってきた岩崎宛書簡は、書簡番号でいうと「215(10月2日付)」でしょうか。「217(10月14日付)」でしょうか。しっかし、生の啄木書簡を持ってくるなど今では考えられない荒技ですが、宮崎郁雨ならそれができるんだよということなのでしょうね。(それにしても、もの凄いメンツ…岡田健三まで来ている)
 この時の発刊メンバーが中心となり、遺稿集発行の次の課題である啄木歌碑建立を主目的とした「小樽啄木会」の外形が整えられて行きます。翌23年春には「小樽啄木歌碑建設期成会」が発足。この期成会が、小樽公園内東山の白樺林中に五寸角の木柱で立てたのが、幻の啄木歌碑として有名な「仮碑」です。かかっていた歌は、小田観蛍揮毫による「かの年のかの新聞の/初雪の記事を書きしは/我なりしかな」。
 昭和25年2月、期成会より歌碑建設に関する請願書が市に提出されます。費用は10万円(6万円は中野五一氏に碑面銅刻依頼費及び4万円が建碑施工費)。同年には、碑の歌が市民に公募されました。公募結果。「かなしきは…」75票当選。「心よく…」51票、「頬につたふ…」41票。ただ、「かなしきは…」については、小樽市議会より「市民感情としては難色」の声があがり紛糾したことは、これも有名な小樽の史実です。

 昭和26・春
寿原市長退職(昭和二六、三)。安達与五郎氏市長となる(昭和二六・四・三〇)
◎建碑問題再燃す。志田四平氏(図書館長)、越崎氏、高田氏等を中心に再出発。
◎対中野氏に依頼の件解消整理。費用につきて高山議員、宮崎郁雨氏等が安達市長に側面から懇請。

 歌碑は、刻む歌をめぐってなど紆余曲折を経ますが、一般市民の心ある寄付などによって同年11月に落成しました。

 昭和26・11・ 3
◎小樽公園内に啄木歌碑落成す。除幕式を行う(文化の日)。啄木の住居せし附近を眼下に見える場所とした。列席者三十余名。除幕は越崎郁子嬢(越崎宗一氏の姪、七才)式の進行係は樋口氏。
◎式後、図書館階上にて記念座談会を行う。安達市長、宮崎郁雨、高田紅果、鈴木道議、高橋市議、小田観蛍、岩城之徳、其他関係者及び一般市民の諸氏等三十余名。

 昭和27・ 8・29
宮崎郁雨氏及び夫人ふき子氏来樽。碑に参拝。越崎氏撮影す。

 啄木歌碑ができたことは、小樽啄木会にとっても心の拠り所が生まれたということでした。翌昭和28年4月には、さっそく啄木会員が碑前に集合して啄木忌を行っています。(以後、この「啄木忌の集い」は、現在に至るまで連綿として継続されているのです) 宮崎郁雨の来樽回数の増加からも、当時の歌碑建立の喜びが伝わってくるような気がします。

 昭和28・ 7
宮崎郁雨
氏の来樽を機に越崎氏、高田氏、其の他常連と共に図書館階上にて座談会を行う。両氏の揮毫の色紙を即席配布(松木所有)。録音松木。

 昭和30・ 7
市内豊楽荘にて啄木座談会あり。参会者は宮崎郁雨氏、宮崎顧平(コヘイ)氏(郁雨実弟・製罐会社重役)、越崎氏、佐貫氏、橋爪氏、豊楽荘女將、松木、会後揮毫会。
宮崎顧平氏は少年時代に、兄郁雨氏を訪ねた啄木を見て、その印象を語る。氏は昭和34年9月東京へ転勤す。

 昭和34・10
宮崎郁雨氏来樽を機に啄木座談会を開く(図書館)。参会者、宮崎氏、高田夫人、三室夫人、越崎氏、志田氏、須藤氏、刀祢氏、山英二氏、松木。約一時間。

 昭和34年の座談会参会者に「高田夫人」が入っているのは、高田紅果氏が昭和30年8月に心臓衰弱にて逝去されたからです。享年65歳。啄木の同時代人たちの訃報が徐々に聞こえてくるようになりました。宮崎郁雨も昭和35年10月に入院することになります。そして、

 昭和37・ 3・29
郁雨氏、函館にて逝去。氏は七七回誕生日の七日前であった。発病後入院中だったが、七ヶ月にして再発せるもの。(脳出血)

 小樽啄木会沿革史が、函館の人「宮崎郁雨」に対して、わざわざその一項を割いて訃報を伝えているところに、宮崎郁雨への深い感謝と敬愛の念を読みとらずにはいられません。高田紅果とはまた別の意味で「小樽啄木会」の生みの親であったことをうかがわせます。

参考:小樽啄木会沿革史