啄木からの手紙
― 明治四十年六月 ―
 
 


194 六月一日函館より 大島経男宛

先夜はいと夜ふけ候ふ頃まで御書見の御邪魔いたし御申わけ無之候、待てど/\咲かざりし何とかいふ片仮名名の鉢の花もよく、かへりの戸口の白根葵、大き葉大き花、色のいづれも浅かりしが殊更になつかしく、御話のさま/゛\と共に思出して、今日も猶心新らしく覚え候、
偖て私事、昨日にて商業会議所の方御用済と相成、今日より閑散の身と相成候、松岡君は既に役所に出られて、机二つの此室、只今私一人に候、吹く風磯の香誘ひ来よと開けたる窓より、隣りの小学校の唱歌の声頻りに聞え来り候、この声は、過ぐる一歳の間口に云ひがたき満足に居し代用教員の生活を忍ばしむる事少なからず候、飄泊の児は、事々に故郷を忍び候、渋民の五月六月は一年中の最も楽しき時、かの杜やいかに、かの川いかならむなど思ひ候へば、うら若きみちのく初夏の天地、さやかにも幻に立ちて我が涙を誘ひ候、郷校の風呂、いと風流にて、屋根といふもの設けず、昼は雲を夜は星を心のまゝに見る様に出来居候ひしが、去年の恰度今頃の事、宵暗に灯を遠ざけて、用もなき宿直の夜の心安さ、一人湯の中に身を浸して物思ひ居り候ひしに、折から校後の森の青葉の中より月のぼり候ひければ、あまりの風流に何事も忘れて、一時間半許りも打過し候て、名をよべば雨の日も風の日もアイと答ふる老小使にいたく心配させし事も候ひし、思出さば数限りもなし、一昨日、頭痛みて勤めの方休み、拝借の、“少年行”読み候ふ時も、みづから教へし児等を目の前に見る様にて、又この身の稚かりし日さへ思ひ合され、離れてのなつかしさほど悲しきはなければ、心のまゝハンケチ濡らし申候、子供らしとお笑ひ下さるまじく候、“人”とは大きくなれる子供の謂と私は恒に信じ居候、社会といふペンキ屋の手にかゝつて、子供らしさを全たく隠して了ひ候ふ大人は、決して私の所謂、“人”にはこれなく候、この子供らしさは、私白髪になるまでも是非持つて行きたく候、
いらざる事書きつけ候ふて大切の用忘れ候、アノ入社の辞、何卒小さい活字になし下され度奉願上候、大きい活字を喜ぶ時代は、私まだ年若く候へど、既に過ぎ申候、却つて今の私、心苦しく候、或る手段としてとやうのお話も候ひしが、それは失礼乍ら千古のお心得違ひに候べし、私の名そんな役になどか立ち候ふべき、雑誌は売るべきもの、これは定義也、弘く売るには別に手段も方法もあるべく、私も少しは考有之候、これはいつかお話も可致候、兎も角も入社の辞の大きな活字だけは御免下され度候、
他郷に居て職を失ひ候ふ心地は、故里の百姓家の一室にひとり残り、賃仕事などし給ふ六十の母を思ふにつけて、いや更に深きを覚え候、早々
  水無月一日                 啄木拝
 大島経男様 御侍史

 

 
 
解説 初代「紅苜蓿」編集長・大島経男 (新谷保人)

『なッて見たら、燐寸箱(マッチばこ)の様だらう。学校といふものは。』
『燐寸箱! 然だ、燐寸箱だよ、全たく。狭くて、狭くて、全然(まるで)身動きがならん。……
(石川啄木「漂泊」)

 啄木の未完の小説「漂泊」。第一章が明治四十年七月発行の『紅苜蓿(れつどくろばあ)』第七冊に発表されたきりです。冒頭、函館・大森浜の波打際に苜蓿社の男三人が登場する、なかなかカッコいい始まりの小説なんですが。残念ながら、未完。
 小説「漂泊」の中で、啄木は「後藤肇」、そして、大島経男(流人)は「楠野」として描かれています。「燐寸箱の様だらう」と言っているのが啄木。「然だ、燐寸箱だよ、全たく」が大島流人ですね。「学校」というのは、当時大島が国語教師をしていた靖和女学校でしょうか。啄木も、つい一二ヶ月前の渋民村尋常高等小学校の代用教員経験をもとに生々しい学校観を語っており、そういった点でも興味深い。

大島経男(1877〜1941) 筆名流人(るじん)、野百合とも称した。啄木の北海道時代の友人で永く文通した。札幌農学校予科から一高に学んだが、三年のとき病気退学した。その後函館で闘病生活を送り、回復後遺愛女学校、函館英語学校の教師をへて明治三十八年五月靖和(せいわ)女学校の国語教師となった。この間新詩社に加盟、詩歌の翻訳を『明星』に発表した。明治四十年一月苜蓿(ぼくしゅく)社の設立に参画し、『紅苜蓿(べにまごやし)』を創刊して啄木と相知る機会を得た。しかしこの年教え子石田松江との結婚の破綻から、雑誌の編集を函館に移住してまもない啄木に托して、郷里の日高国静内の山中に隠棲した。その後札幌の『北海タイムス』の電報主任、春秋杜の『服部漢和大字典』編集主任として勤務するが、晩年は不遇で六十五歳のとき神戸で病没した。
(岩城之徳、全集第七巻・解題より)

 とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
 山に入りにき
 神のごとき友   (一握の砂/忘れがたき人人)

 「山」とは、大島流人が隠棲した日高国静内。啄木は、この後、大火に見舞われた、北門に入った、小樽に移る…と、事ある度に宮崎大四郎(郁雨)宛に報告の手紙を書くのはもちろんなのですが、意外なことに、大島流人宛にもかなりな長文の丁寧な手紙を書いているのですね。「神のごとき友」という表現はウソではない。

 苜蓿社の同人たち。啄木が北海道を漂泊していた明治四十年からの一年間、動いていたのは啄木だけではありません。同人たちもめまぐるしく動きます。軍隊(郁雨)、道庁役人(沢田天峰)、教え子との結婚・破綻(流人)、貧困・肺結核(岩崎白鯨)… 苜蓿社はいわば日本近代の青年群像のすべてを体現しているといっても過言ではなく、この点、啄木の動きにばかり目をとられていると、青年・啄木の北海道漂泊の意味を見失うことにもなりかねません。