啄木からの手紙
― 明治四十年五月 ―
 
 


497 四月二十八日渋民村より 畠山亨宛


米長氏の方失敗に終わり、其他も矢張ダメ、一昨日四方へ手紙とばしたれども、其返事未だ来らず、尤もこれは遠方故、猶二三日の間あらんと存候、
老兄が生のために御尽し下され候ふ御厚志は何とも感謝の辞なし、米は今夜つきたり、明朝は粥。
出した手紙どれかかれか物になるべく候に付、この文御落手次第一円か二円頼む、どうぞ、
来客中故要件だけ、乱筆御めん
  四月二十八日夜
                       啄木
 東川老兄御待史

 


192 五月一日渋民村より 畠山亨宛

一昨日の御厚情多謝、
小樽より小妹の旅費まゐり候、明後三日午後二時半に好摩出立致度候間、何卒願上候、
函館の友よりも手紙着、同地に然るべき隠家ある見込也、
  一日朝                  啄木
 畠山亨様

 


193 五月四日好摩より 畠山亨宛

御厚志の段々万謝に堪へざる所、荊妻持つてまゐり候ふ貴書拝見候へども、兵は神速を尚ぶ、電報もき居候事故、今出発仕候、米長及び瀬三の方家のアト仕末に充つる見込、宜敷、
  四日午後二時七分
 畠山亨様              好摩局にて啄木

 

 
 
解説 函館まで 特に畠山亨について (新谷保人)
 
『出したすか? 出さねえすか?』
『何故?』
『何故ッて。用があるから訊くのす。』
 よくツケ/\と人を圧迫(おしつ)ける様な物言をする癖があつて、多少の学識もあり、村で健が友人(ともだち)扱ひをするのは此男の外になかつた。若い時は星雲の夢を見たもので、機会(おり)あらば宰相の位にも上らうといふ野心家であつたが、財産のなくなると共に徒(いたづ)らに村の物笑ひになつた。今では村会議員に学務委員を兼ねている。
『出しましたよ。』と、健は平然(けろり)として答へた。
『真箇(ほんと)すか?』
『ハゝゝゝ。』
『だハンテ若い人は困る。人が甚麼(どんな)に心配してるかも知らないで、気ばかり早くてさ。』
(石川啄木「足跡」)

 明治四十年四月、村の代用教員の辞表を出そうとしている千早健(=啄木)をなんとか慰留しようとする東川。小説「足跡」の中では、畠山亨は、村の種市助役の命を受けてS村尋常高等小学校に駆けつけてきた学務委員・東川として描かれています。
 東川の、村のトラブルを避けたいという役職上の都合ではなく、真に啄木の才を惜しむからこそ、ここでトラブルを起こしてはいけないのだという真心が伝わってきます。でも、そんな思いやりにも、若い人がなんとも無頓着なのは今も昔も同じですね。

 時系列で、この明治40年(1907年)前半の啄木を追ってみます。この時、啄木、満21歳。
 1月。啄木は、函館の同人雑誌『紅苜蓿』(苜蓿社)に「公孫樹」等を発表しています。同じく2月には「鹿角の國を憶ふ歌」を発表。苜蓿社グループとの結びつきがどんどん強められていきます。
 1月7日が渋民高等尋常小学校第三学期始業式。同日の日記には、「予の代用教員生活は恐らく数月にして終らむ。予は出来うるだけの尽力を故山の子弟のためにせざるべからず」と記しています。辞職の予感でしょうか。
 現実が、その予感を早めます。3月5日には、父・一禎が、住職再任の前提である滞納宗費弁済の見通しがつかず、再任を断念して野辺地常光寺の師葛原対月を頼り家出してしまいました。渋民村への再住運動はここに挫折。
 啄木の挫折感も深かった。追い打ちをかけるように、妻・節子が、誕生した京子を連れて盛岡の実家から帰ってきます。また、この頃、妹光子も学費に困窮して、盛岡女学校を退学しています。
 3月。ついに啄木は北海道での新生活を決意し、20日、函館・苜蓿社の松岡蕗堂に宛てて渡道を依頼しました。そして、4月1日の辞表提出。前述の、岩本武登助役や畠山亨学務委員による慰留も功を奏さず、事態は、4月19日、高等科生徒たちとともに校長排斥のストライキを指示するまでに至ります。村内は騒然。
 啄木には免職辞令が下されました。5月4日、節子は盛岡の実家、母親は渋民武道の米田長四郎方へと一家離散します。一方、啄木は、夫が小樽駅長となった次姉トラ宅へ向かう妹光子とともに渋民を出て、5月5日、函館の桟橋に降り立ったのでした。

 函館に着くまでの、息詰まる数日間の模様を物語る明治40年5月の畠山亨宛書簡。しかし、全集の解題(岩城之徳編)では「畠山亨(1873〜1918)筆名東川。啄木と交遊のあった渋民村の助役。本巻に収めた書簡四九七は新資料」とあまりにもそっけない。当時は畠山亨の情報がなかったのでしょうか。
 ただ、新資料四九七(4月28日付書簡)の登場によって、今までよく意味の通らなかった5月1日付の「一昨日の御厚情多謝」などの内容が子細にうかがい知れるようになり、それらに伴い、畠山亨という人の大事さが啄木ファンの間にも知られるようになったことはとても喜ばしいことです。
 なお、2004年11月10日の「岩手日報」には、明治37年(啄木18歳)の畠山亨宛直筆ハガキが発見されたことが報じられています。畠山との親交が渡道以前よりあり、「足跡」に描かれた姿がかなり正確なものであったことを思わせます。