北の沢クロニクル E/バイキ! |
バイキ! 馬にかける掛け声。「バックすれ!」の合図。 ―――生まれは樺太です。両親は終戦で内地へ引き揚げました。知人のつてをたどって北の沢へ。父は豊原で呉服店をひらいていた人です。母もその店のお針子。なぜ開拓農民の道を考えたのかはわかりません。ただ、農業とはいっても、北の沢は深い山間の痩せた土地です。畑の収入だけでは当然まかないきれませんから、父の冬の間の炭焼きや、母の着物仕立ての雑収入などでなんとか生計を立てていました。 吹雪が差し込むその家での暮らしが始まった。毎朝、布団の襟の冷たさで目が覚める。吐く息で凍ってしまうのだ。朝食は麦粒の浮いた雑炊。昼食は蒸した馬鈴薯。夕食は麦飯にホッケの塩びきと味噌汁。おやつはいっさいなかった。 娘は上から、豊乃、茂子、政江、末乃。当時、豊乃は二十二、三歳。茂子は二十歳そこそこで政江は中学生。末乃は私と同じ歳だった。 おじさんとおばさんは家からさらに四キロほど奥に入った山中で炭焼きをしていた。家に戻って来るのはせいぜい月に一度か二度で、根の雪おろしも、薪割りも、粉挽きも、長女の豊乃がまとめていた。 (峯崎ひさみ「バイキ!」) ―――両親の子どもは私と末乃の二人です。でも、家には、わけあって預かった子どもが何人かいました。札幌から来たアッコ(朝子)も中学校のあの卒業式の日まで北の沢の家にいました。札幌の高校を出た後は、東京の会社に行ったらしい。私もその後こちら(小樽第二病院)に入ってしまったので詳しいことはわかりません。 初雪に見舞われた朝、両親と兄弟に送られて婿さんという人がやって来た。力ーキ色の外套、さりげなく結んだマフラー、ポマードでまとめた髪形。鴨居にぶつかりそうなほど背が高く、坑内に潜っていたせいか猫背で色が白かった。歳は豊乃姉とさして変わらず、中学を卒業してすぐに炭鉱夫になったそうだ。(中略) 着物姿の豊乃姉は、卵焼きや金ぴら牛蒡を前にうつむいていた。 「しかし、何でまた百姓なんかに。炭鉱の方がずっと金取りいいべさ」 誰かが婿さんにそんなことを聞いていた。 「憧れだったんです。土起こしたり種蒔いたりするのが」 婿さんは歯切れ良く答え、豊乃姉にやさしい眼差しを向けた。炭鉱夫は荒くれ者が多いと聞いていたので、その丁寧な言葉づかいに驚いてしまった。 「次は孫だな」 お酌に回るおばさんに、あちこちから声がかかった。 ―――北の沢での結婚生活は穏やかなものでした。婿さん(清さん)は真面目な働き者だったと思います。ただ、なんというのか、あらかたの仕事は難なくこなすのですが、たったひとつ、うちで飼っていた馬だけは絶対に清さんを寄せ付けませんでした。清さんが近づくと目を剥き、寝藁を取り替えようとすると蹴り、餌を与えると踏みつけました。清さんの、声を荒げ、それでも馬を容赦なく打ち据える姿に少し怖いものを感じました。 元旦の朝、家畜小屋を覗くと豊乃姉の姿がなかった。吹雪が藁壁を叩き、柵の中で馬が落ち着きなく足踏みをしていた。 昼近く、清兄と豊乃姉がそろって茶の間に顔を出した。豊乃姉の瞼のあたりがいつもより腫れぼったく見えた。清兄が、「昨夜、出すの忘れちまって」と、おばさんに焦げ茶色の缶を渡した。 「こりゃ、何つうもんだね」おばさんが目をすがめ、缶を逆さにしたり振ったりした。 「コ・コ・アってゆうだと」豊乃姉が教えた。弾んだ声に聞こえた。 清兄が缶を開け、ちゃぶ台に人数分の湯呑み茶碗を並べた。皆、口を開けてその手元を見守った。やがて甘い香りが部屋いっぱいに溢れた。 初めて口にする味だった。鼻の穴を膨らませて香りを嗅ぎ、その茶褐色の液体をすすった。 「もう少し、砂糖、きかせた方がよかったかな」 豊乃姉の顔を覗き込むようにして清兄が聞いた。 「ちょうどええ」豊乃姉は気恥ずかしそうに首を振って、湯呑み茶碗を両手に包んだ。 たちまち三が日が過ぎて、吹雪の中を清兄は炭鉱に戻って行った。 ―――妊娠しました。 友達に漫画を返しに行った帰り、守さんのジープとすれ違った。助手席に清兄が、後部席に、おばさんに支えられて豊乃姉が乗っていた。ジープは私に気付くことなく猛スピードで走り去って行った。 息を切らして家に戻った。おじさんが杖をつきながら家の前を行ったり来たりしていた。末乃が泣きながら、豊乃姉が出血を起こし急に苦しみ出したのだと教えた。畑の茂子と政江も鍬を止めて町の方角ばかり気にしていた。 馬鈴薯が芽を出す頃になっても、家の中は重苦しい空気に包まれていた。 病院も医師も最善を尽くしてくれたようだが、豊乃姉の腹の子は助からなかった。 (中略) 夏休み、私は初潮を見た。末乃はその少し前に迎えており、置いてきぼりを食った感があったので何となくほっとした。しかし下腹の鈍痛が私を不安にさせた。 妊娠もつわりも流産も出産も、月経から繋がっていることが怖かった。豊乃姉はおじさんとおばさんから生まれ、豊乃姉と清兄の子供は死産した。寝付かれないまま、そんなことを整理した。 ―――流産でした。家の中が暗く沈み、黙々と、自分を責めるかのように鍬を振るい肥を運んでいる清さんの姿がつらかったです。身体も思わしくなく床に伏せるようになり、私の仕事だった馬の世話も茂子がやるようになりました。 そんな騒ぎの中で、私と末乃は中学三年に進級した。 所々に雪が残って入る道を二人でふざけながら帰って来ると、茂子が馬にプラウを引かせ畑を起こしていた。手綱の引き方も、刃の泥の掻き方も、豊乃姉と変わるところがない。 ただ一つ違っているのは、「バイキ!」の掛け声だけだった。茂子のは、「キ」のところが刺さるように強い。豊乃姉の、あの青い空にすーっと抜けていくような澄んだ響きがなかった。それでも馬は素直に従い、半年もの間、雪に圧し固められていた畑がぼっくりぼっくりと掘り起こされていった。 ―――清さんと茂子が駆け落ちをしたのはその年の冬。末乃たちの卒業式の前日です。茂子は村井守さんと結婚式を挙げる予定でした。 いよいよ明日が婚礼だという前の晩、家族で祝いの膳を囲んだ。豊乃姉も清兄に支えられるようにして席についた。 「茂子よ、後のことは心配するな。この家にゃ、清さんがついててくれる」 おじさんは鼻声になり、おばさんは目を瞬かせた。 茂子が一人ずつに焼酎を注いだ。私と末乃には甘酒が注がれた。杯を合わせようとした時、ゴオーという雪崩の音があった。脅えたように顔を上げた豊乃姉に、「大丈夫だよ」と清兄が言い聞かせた。甘酒が舌にとろけて、卵焼きも煮付けもうまかった。湯気に曇る窓ガラスに肩を寄せ合う家族がぼやけて映っていた。 翌朝、馬の嘶きに跳ね起きた。 明けやらぬ表に馬橇が走り出そうとしている。手綱を握っているのは茂子だ。その隣に身じろぎもしない細長い影があった。 「せ、い、あ、に!」声が喉に張り付いた。 ひゅーと鞭がしなった。鬣を振り立て前脚で空を蹴って馬が抗う。茂子が狂ったようにもう一鞭くれた。 「バイキ!」 掠れた響きが淀んだ空気を震わせた。いつ出て来たのか豊乃姉が身をよじり、全身の力を振り絞るようにして叫んでいる。その目には、馬にプラウを引かせて畑を往復していた頃の光が戻っていた。一瞬、馬が動きを止めた。茂子がなおも鞭を振り下ろす。馬櫨がわずかに滑り出した。 「バイキ!」 ―――私の何が悪かったのか、今となってはわかりません。いや、はっきりわかっています。もう少し私が丈夫だったら…、子どもが無事生まれていたら…、そう思わない日はありません。でも、子どもが生まれていたとしても、やはり清さんは茂子と北の沢を出て行ったのではないかという気もするのです。私自身も北の沢を離れ、ここ小樽に来てしまった今、なおさらそう思うのです。 豊乃、小樽第二病院で狂死。 |
峯崎ひさみ氏の小説「穴はずれ」。収録作品は、「小豆」、「おとぎり草」、「種付けの集落」、「穴はずれ」、「バイキ!」、「ヤンチャ引き」の6作品。奥付の著者略歴には、「峯崎ひさみ (みねざき・ひさみ) 一九四七年、樺太豊原市生まれ。北海道育ち。美容師、健康飲料販売員、食品会社勤務などを経て、文芸同人誌『MIDORI』に、「針」「影踏み」「雨の牛宿」「約束」などを発表」と記されています。 |