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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



北の沢クロニクルC/穴はずれ
 
 

「実はな、町さ下がることにしたんだわ」
 すーと、血が引くのを覚えた。
「一昨年、最後の一軒になってしまった時もずんぶ考えたども、結局、踏ん切りつかなくってな。乳牛から肉牛に変えた矢先に今回の狂牛病騒ぎだべ。これ以上、借金増やすわけにいかねもの」
 ずずっと酒をすする音がした。
「熊の被害も馬鹿になんねんだわ。作物荒らすだけならまだしも、輸送缶ごと牛乳はさらってく、納屋さ入り込んで飼料は平らげる。去年は牛が二頭も殺られた。それも、ここんとこ、やたら穴はずれが多くてよ」
(峯崎ひさみ「穴はずれ」より/「穴はずれ」)

 穴はずれ。久ぶりに聞く響き。何かの加減で発情期がずれ、交尾の相手を探し回っている間に冬眠しはぐねた羆。それはまた男女の結び付きを意味する言葉として、酔った男衆が卑狼な笑い声を上げながらよく使っていた言葉でもあった。

 俺はその言葉の響きが嫌いだった。俺だけでなく、文太にしろほかの友達にしろ思春期にあった誰しもがそう感じていたようだ。だから学校の行き帰りや教室で熊の話が出ても、その言葉を口にする者はいなかった。
 今、穴はずれという言葉をごく自然に話す文太と、抵抗なく受け止められる自分に、あらためて歳月の流れを感じるのだった。
「専門家に語らせりゃ、穴はずれが多くなったのは、自然形態がくずれてる証拠なんだと。開発だの温暖化だのって、俺達一人一人にも責任があるってことよ」
「難しい問題だな。で、土地の方はどうするんだ」
「森林組合さ売ることにした。二束三文だけど、今の俺にゃ、それですら必要なんだわ」
 低い笑い声が漏れてくる。
「ひい爺さんが鍬入れして、爺さんが野焼きして、親父が根っこ掘った土地ば、守りきれなかったでや……」
 むせび泣きに変わっていた。

 穴はずれが増えている。人生の穴はずれが。私たちのまわりの、どこにも。剛の頭の中にも、あの中学3年初冬の雌の穴はずれの思い出がよみがえる。そして、転校生「下草なみ子」の母親の淫らだった姿も。

 おやじの熊撃ちを目の当たりにしたのはそれが初めてだった。身体の震えはなかなか止らなかった。いったん止んだ風花が、身じろぎもしない熊と夥しい血の上に舞い始めていた。戸がきしみ、手かざししながら母親が出て来た。薄物の裾が乱れ、肉付きのいい臑が見え隠れしていた。土に滲みきれず渦になっている血を踏んで、母親はおやじの側に歩み寄った。それはまるで、息絶えた熊の肉体から抜け出した化身のようにも見えた。母親は眩しそうにおやじを見上げた。息苦しかった。母親は袂の端を唾で濡らすとつと白い腕を伸ばし、おやじの髭面の返り血を拭った。俺の心臓が音立てて鳴った。
「ええ男だの……」

 あの時、なぜ父はあの「下草なみ子」の一家に羆の肉を分け与えたのだろう。
 北の沢には守らねばならない掟があった。他所者に獲った羆の肉を分け与えてはいけない、と。昔、鉱山から逃げてきた朝鮮人に肉を食べさせた家が火事にあった。飢えと寒さで衰弱していた逃亡者は、涙を浮かべ、両手を合わせて立ち去ったというのに、その晩、その家から出た火は、家族八人を焼死させ、隣家に燃え移り、さらに集落の人々が共同で植林していた山林まで焼き尽くしてしまったという。
 そんなことは百も承知しているはずの村の鉄砲番の父が、なぜあの流れ者の母娘に肉を分け与えたのか。今でも剛には父の真意がわからない。けれど、あの日を境に、父や母や剛や文太や皆の人生が大きく変わっていった。
 分校の卒業式。文太のおやじは東京で見て来たことを話し、これから日本は目覚ましい勢いで変わって行くだろうと語った。それを担っていくのは君達だと声を高め、どんなに世の中が変わっても故郷を思う気持ちだけは忘れないでほしいと目を潤ませた。

 その後で、俺達家族が明日、東京に発つことを伝えた。会場からざわめきが起きた。文太の父親はさらに、
「長年、鉄砲番として北の沢を守ってくれた剛君の父さんに感謝の拍手ば贈りましょう」と呼びかけた。手を叩く者はわずかだった。しかしその中に文太が混じっていることに俺は胸がつまった。

 三年後、東京でアジア初のオリンピック。
 


 峯崎ひさみ氏の小説「穴はずれ」。収録作品は、「小豆」、「おとぎり草」、「種付けの集落」、「穴はずれ」、「バイキ!」、「ヤンチャ引き」の6作品。奥付の著者略歴には、「峯崎ひさみ (みねざき・ひさみ) 一九四七年、樺太豊原市生まれ。北海道育ち。美容師、健康飲料販売員、食品会社勤務などを経て、文芸同人誌『MIDORI』に、「針」「影踏み」「雨の牛宿」「約本」などを発表」と記されています。