Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



北の沢クロニクルB/種付けの集落
 
 

 鈴代がやってくる。

「崖が崩れてた所があって冷や汗かいちまったよ。ああ空気がうまい」
 鈴代は深呼吸して額の汗を押さえた。
 当時、鈴代は北の沢の人達がヤマと呼ぶ横方鉱山で宿舎の賄いをしていた。
 ヤマは、たまに父母にくっついて行く役場や商店のある街へ出るよりもずっと近い距離にあった。採掘場の赤い山肌や鉄塔がすぐそこに見え、風向きによって発破の音も聞こえた。しかし霧を溜めた深い沢に遮られて容易に行き来が出来なかった。
 鈴代は半日もかけてその沢を越えて来る。崖に沿った草深い道は、昔、タコ部屋から脱走した人達によってつけられたものだと聞いていた。
「これっ、鈴おばさんくたびれてるんだから、離れてろ離れてろ」
(峯崎ひさみ「穴はずれ」より/「種付けの集落」)

 鈴代はまるで水でも飲むように葡萄酒をくいくいと空けた。しだいにろれつが回らなくなり、やがて天井を向いてやたら笑い出す。そうなると母が、私と妹を、「もう寝ろ」と追い払いにかかった。
「あの子が生きてりゃ、亮子と同じぐれえになってる勘定だ……真岡のあのしばれる収容所で誰の手も借りずに産んだのさ。堕りてけれ、流れてけれって願い続けた赤ん坊だったども、産み落とした瞬間、愛しく思えてな。それだのに、この乳ば吸うこともなく冷たくなっちまった」
 引きっぱなしの布団に転がると、鈴代のその重苦しい声が聞こえてきた。
「亡骸ばどこさ埋めたもんだか、どうやって引き上げ船さ乗ったもんだか、何も覚えてねんだわ。気がついたら甲板から飛び込もうとしてた。誰かに抱き止められて、生きなきゃだめだって引っぱたかれた。それが則ちゃんだった」
 コップの倒れる音がして、母がちゃぶ台を拭いているのがわかった。
「則ちゃんにゃほんとに世話かけた。朝子と亮子の笑顔にも励まされたものさ。函館さ上がっていったんは離れ離れになってしまったども、沢一つ隔てて暮らしてるってわかった時や、嬉しくてどうにかなりそうだったよ」

 鈴代に則ちゃんと呼ばれている母も、そして父も、皆、樺太からの引き揚げ者だった。後志の山間の寒村でひっそりと暮らしを立てる両親の元へ、毎年、晩秋の頃になると鈴代はやってくる。山羊の種付けを手伝うために。
 横方鉱山の賄い婦をしている鈴代の評判はよくない。身なりを構わない。慶弔事や親睦会に無関心。残業代を多めに請求して咎められたり、炊事場の調味料や乾物が頻繁に紛失する… すべては北の沢で行われる種付けの三日間のために、鈴代の一年はあったのだろうか。種付け山羊の弁慶と雌山羊の鼻黒がつがった瞬間の鈴代の目の光の怖ろしさを母は言う。

「鈴ちゃんに来てもらうのも考えもんだと思ってる……」
 母の、独り言に近い声が聞こえてきた。
「まだ朝子のこと気にしてるのか。農家の娘だ。山羊のお産見せてしまったぐらいで神経質になることもあんめえ。ましてや鈴ちゃんとは何の関係もねえこったべ」
 父がカマスの豆を箕に移しながら答えた。
「ああ、確かに……。んだども、おら、怖いんだ。鈴ちゃんとあんたと三人で山羊小屋さこもるのが辛いんだよ。弁慶と鼻黒がつがった瞬間、逃げ出したくなるんだわ。あの人の身体から、目に見えない何かがあんたさ向かってびりびり流れていくんだもの」

 そう言っていた母が突然死んだ。

「おらに生きろって教えておきながら先に逝っちまうなんてよ」
 駆けつけて来た鈴代が取りすがって泣いた。呉服屋の女将さんが、微笑んでいるような顔に白粉を塗り紅を引いてくれた。「嫁さんみてえ」と、その頬を撫でる妹を抱きしめて、父が肩を震わせた。

 翌春、父は一人で畑を起こし、麦や馬鈴薯を蒔いた。草を取り、害虫の駆除をし、秋になるとそれらを収穫した。鈴代は、母がいなくなってもそれでもまだ沢の道を上って来る。

「卒業したらどうするつもりだ」
 突然、聞いてきた。私は振り返りもせず黙ったままでいた。
「実はな、ヤマの購買所で売り子ば募集してるみてえなんだわ。寮も新しくなったし、来年から給料も上がるそうだ」
 購買所……。母が私を勤めさせたいと望んでいた場所だ。鈴代はずっとそのことを心にかけていてくれたのだ。胸の奥のしこりが緩むのを感じた。だが、素直になれなかった。「お節介はやめてけろ」と叫んでいた。
「ついでだからゆわせてもらう。もう、ウチさ来ないでけれ」
 父の平手が飛んで来た。
「まあ、まあ、朝子にゃ、朝子の考えがあるんだべ」
 鈴代がその腕を押さえた。
「鈴おぱさんはな、おら達家族のこと思って、毎年毎年、深い沢ぱ越えて……」
 父は目を剥き、顎をがくがく鳴らした。
「そうじゃねんだよ。そったら体裁のいいもんでねって。おら、種付けの仕事が好きなんだ。それだけのことさ」

 不思議な鈴代の人生観。いくら引き揚げ船での恩があるとはいえ、後妻の座を狙っているわけでもなく、二人の姉妹に死んだ子の思い出を重ねているともいえない。(姉妹が北の沢を出ても、それでも鈴代は通ってきた) もしかしたら、鈴代が言う「この三日間があるから頑張れるんだわ。種付けの仕事が自慢なんだよ」がいちばんの正解なのかもしれない。正真正銘、北の沢の魔力に取り憑かれた人なのかもしれない。父と同様に。

 その父も死んだ。
 もはや身体もきかず、北の沢を下りて麓の町にひきとった晩年、父は、ひきとった妹を母と間違え、孫娘を朝子と呼び、週に何度か通う老人クラブの職員を鈴代と勘違いしていたという。その父も死んだ。父の葬儀の朝、鈴代がもらした一言が忘れられない。

「おお、羊蹄山はいいなあ。おら達人間が、死んだり生きたりして大変だっつうに、あの山だけは少しも変わってねえ」
 


 峯崎ひさみ氏の小説「穴はずれ」。収録作品は、「小豆」、「おとぎり草」、「種付けの集落」、「穴はずれ」、「バイキ!」、「ヤンチャ引き」の6作品。奥付の著者略歴には、「峯崎ひさみ (みねざき・ひさみ) 一九四七年、樺太豊原市生まれ。北海道育ち。美容師、健康飲料販売員、食品会社勤務などを経て、文芸同人誌『MIDORI』に、「針」「影踏み」「雨の牛宿」「約本」などを発表」と記されています。