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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



北の沢クロニクル@/小豆
 
 

 灌木の茂みを抜けると勾配がきつくなった。風もないのに熊笹が白茶けた葉を裏返して騒ぐ。底の剥がれかかったゴム長と濡れた靴下がくちゃくちゃと鳴った。
 一時間かけて中学校から続くこの山道を通うのも、あと、何日でもない。静まり返った集会所の前を過ぎると、トウヒ松の林が両手を広げるように待ちかまえていた。雪は針状の緑葉に真綿をかけ、ヤニの匂いを和らげている。梢から梢へと栗鼠が渡って行った。
 たわんで揺れる枝先の向こうにぽつんとわが家が見えてきた。十軒ほどの農家が急斜面にしがみつくように点在するこの集落の中で、最も北の外れに立つ、小屋に毛が生えたような家だ。納屋のすぐ裏手まで迫っている傾斜は、夏、麦や稗が波打つ畑に変わる。
(峯崎ひさみ「小豆」)

 玄関の戸に手をかけた瞬間、はっとする。母が小豆を炊いている…

 母が小豆を炊く時は、なにか異変があった時。近くは、数ヶ月前の大晦日。町の病院に入院している父の容態が急変した時だった。今度こそは危ないかと観念した母は、小豆を炊き、父から死装束と申し渡されていた反物を縫い、私たちを家に残して病院へ駆けつけていった。

 父は樺太の豊原という町で、祖父母とともに呉服店を開いていたそうだ。
 店は繁盛して、父は毎日、着物姿で客の応対や帳簿付けに追われていたらしい。
 お針子だった母と結婚して間もなく戦争が激しくなり、何人かいた住み込みの店員さん達も空襲の犠牲になった。
 たまたま父と母は、豊原郊外の伯母(母の姉)の家に行っていたため難を逃れたという。
 伯母は畑を作っており、学生の頃から農業にあこがれていた父は休日の度に種蒔きや草取りの手伝いに通っていたようだ。
 戦火はいよいよ厳しくなり、父と母は伯母夫婦とともに樺太を脱出。だが、伯母夫妻は引き上げ船の中で流感にかかり、本土の土を踏まずして息を引き取った。
 父が開拓農民になると言い出した時、母は猛反対したそうだ。しかし父は譲らず、再出発の地としてこの集落を選んだ。
 もとより頑健でない父にとって野を焼き木を倒し根っ株を掘る作業は、夢や好奇心とはほど遠いものだったに違いない。それでも父は鍬入れの翌年には五十反まで畑を拓き、次の年には家畜小屋を建て増した。そして三年目に私が生まれている。
(同書より)

 父母が入植した地、「北の沢」。物語が始まる場所。6つの短編には大きな特徴があります。ひとつが、かならず二重の時間の中で物語は形成されること。例えば、「おとぎり草」ならば、1960年代初めの「北の沢」の夏と、1988年の不況・リストラの冬の風が吹く札幌の街。例えば、「バイキ!」ならば、同じく60年代の「北の沢」の三月と、イラク戦争反戦デモの東京の夏といった二重の時間が同時に流れて物語は構築されてゆきます。二重の時間の片方には、いつも、この小説世界の震源地「北の沢」の時間(記憶)が配置されるのです。(ふたつ目の特徴、文字通り「穴はずれ」というテーマについては後の回で)

 「小豆」だけが、少しちがっている。二重の時間とは言っても、せいぜい数ヶ月のちがいです。小説中の「三年後のオリンピック」の言葉から、時間は1960年大晦日から1961年3月上旬の中学校卒業式まで間の出来事とわかります。場所も「北の沢」の中を一歩も出ない。これも、他の短編と大きくちがう。小説「穴はずれ」のトップに、あえてこの作品を持ってきているということからも、ここには、なにか、作者がどうしてもまずこれを語っておきたかったのだ…という、作者の原点、「北の沢」の由来のような想いが読みとれます。

 今日、なぜ、母は小豆を炊いたのか…

 小豆は、不幸や禍々しいことへの小豆ではなかった。むしろ、これから主人公の人生がスタートすることへの祝福の小豆だった。人生のスタート、それは、「北の沢」を出て町へ降りること。そして、それは、「北の沢」の物語がはじまることでもあった。

 「母さん、元旦の晩に、待合室で多田さんのおじさんと毛布さくるまって夜明かししたってほんとか」
 舌がもつれ声が上ずった。拳を押しつけて口元の震えを隠した。
 「んだ。特別、しばれた晩だったもの、一枚でも毛布があって助かったさ。ああ、小豆も食った。おじさんと半分分けしてな。おかげで元気になれた。力が湧いてきた。いいか。おまえも働きながら高校さ通うんだ。そったらヨッチャレ根性でどうする。どったらことがあっても生きていかねばなんねえだ。しばれ死んでなんかいられねんだぞ」
(同書より)
 
 


 峯崎ひさみ氏の小説「穴はずれ」。収録作品は、「小豆」、「おとぎり草」、「種付けの集落」、「穴はずれ」、「バイキ!」、「ヤンチャ引き」の6作品。奥付の著者略歴には、「峯崎ひさみ (みねざき・ひさみ) 一九四七年、樺太豊原市生まれ。北海道育ち。美容師、健康飲料販売員、食品会社勤務などを経て、文芸同人誌『MIDORI』に、「針」「影踏み」「雨の牛宿」「約本」などを発表」と記されています。