『OUT』から『柔らかな頬』へ
《小樽の街を歩こう 第16回/短大図書館だより 2002年9月号》
 
 
 10月に公開される映画『OUT』。配役の顔ぶれを見てみると、主人公「香取雅子」役を原田美枝子がやるのですね。これは興味津々。(「佐竹」役を「間寛平」というのも、なにか凄い…) 「香取雅子」をはじめ、弁当工場の四人組のラインナップは次のようになっています。
 
 香取雅子………原田美枝子
 吾妻ヨシエ ……倍賞美津子
 山本弥生………西田尚美
 城之内邦子……室井滋
 
 この配役を見る限り、小説に描かれた登場人物のキャラクターはかなり的確に映画にも移しかえているような気がします。まちがいなく面白い映画になるでしょう。もともとが、桐野夏生の作品は筋の展開が鮮やかな作品が多く映画向けなのですが、それに加えて、役者をケチっていないわけで、これでヒットはほぼ確実と思います。
 
 そうは思うのですが… でも、ちょっとだけ不安もある。
先に小説『OUT』を読んでしまった者の意見として言わせてもらえば、あの小説が持っている面白さは、ドラマ展開のテンポの良さやキャラクターの強烈な個性だけじゃないのです。もっともっと面白い仕掛けがあるのです。
 
 
 もっと面白い仕掛け…それは、桐野夏生独特の小説手法です。つまり、ドラマ進行上で、登場人物の「視点」をどんどんとり替えて行くという、画期的な方法が使われているのです。
 
 こういうことです。例えば、第1章の「1」。
 
「ね、雅子さん。山本さん、どうするんでしょうね」
さあ、と雅子は肩をすくめた。邦子が大きなあくびを洩らしながら続けた。
「あたしだったら離婚するな。頭に来るなんてもんじゃないですよね。夫婦の貯金勝手に遣われたら」
「そうだね」
相槌は打ったが、弥生の子供はまだ五歳と三歳だった。すぐに踏み切れるほど、ことは単純ではない。帰る先がわからないのは、雅子だけではなさそうだ。………
 
というように。「1」は、登場人物の内、「香取雅子」の視点で話が書かれています。ところが、「2」に入ると、視点は「城之内邦子」にきり替わるのです。
 
 雅子の車が駐車場を出たすぐ先で信号待ちしている。へこんだ傷のあるカローラの尻を見ながら、よくもまあ、あんな古い車に乗っていられるものだと思う。赤の塗料は古ぼけているし、あの汚れ方は十万キロ以上走ったとしか思えない。それに、交通安全の赤いステッカーを貼るなんてださすぎる。自分みたいに、中古でもいいから見場のいい車に乗ればいいのに。でなければ、新車をローンで買えばいいのだ。………
 
 こうやって、章ごとに人物の視点をどんどんとり替えて行く。そして、なおかつ、話の筋もどんどん進行して行く…という、なかなか面白い小説手法を使っているのです。
 この方法を使うことで、表面的には仲の良いコンビニ弁当工場のおばさん四人組も、それぞれの心の内面では嫉妬や軽蔑といったどろどろした感情が渦巻いているんだよ…ということを、とても雄弁に表現することに小説『OUT』は成功しているのです。
 ただ、この方法、小説ならば、読者に違和感を覚えさせずに自然に実現できるのですが、映画の中で行うとなるとなかなか難しい手法なのではないでしょうか。映画はどうしても「視点」が主人公や映画カメラのあたりに固定されますからね。それを踏み外して、この小説『OUT』の手法をまともに映画でやってしまうと、とんでもない「多重人格」映画になってしまうと思います。いったいどうやってこの難問を切り抜けるのかなぁ?と個人的には興味津々ですが…
 
 
 桐野夏生も、また、この『OUT』に至って、この小説スタイルに開眼したのでした。
 
 それまで書いていた作品、例えばデビュー作『顔に降りかかる雨』とか『天使に見捨てられた夜』も良くできたミステリー小説だとは思いますが、なにか優等生的なそつの無い作品に感じます。ミスが少なく、どの科目もとりこぼすことなく万遍なく点数をとるのだけど、でもそれだけ…みたいな。格別、桐野夏生でなければできない!みたいなセールスポイントが少なくて、ちょっと困ってしまいます。
 特に、『OUT』を読んでしまった後では、その物語語り手の一人称視点で語られる小説はやはり単調に感じました。
 
 『OUT』以前の桐野夏生と『OUT』以後の桐野夏生は、全然別ものなのです。その歴然たる証拠こそが、『OUT』の次に書かれた作品『柔らかな頬』ではないでしょうか。
 
「森脇さん、小樽に行ったことありますか」
「いいえ」
「丘の斜面にへばりついた平べったい街ですよ。朝里海岸は?」
「勿論、ありません」
「きっとびっくりしますよ」内海は小さな笑いを漏らした。「あれでも一応、海水浴場ですから」
 自分の家の前の浜も、海水浴場だった。七月終わりから八月中旬までのほんの二十日間ばかりは、水着を黒い砂で染めた男女で賑わった。カスミはその期間だけ店を手伝った。札幌に住む内海があの浜を見たなら、朝里を笑うことはできないだろう。
 
 おわかりのように、この小説、小樽の「朝里海岸」がチラッと登場します。桐野夏生は金沢の人だと本に書いてありましたけれど、どうして、こんな北海道小樽の名もない地名まで知っているのでしょうか。不思議です。優秀な「北海道」ブレーンでもついているのでしょうか?
 そんなことを思わせるくらい的確なロケーション。「蘭島」や「石狩浜」じゃダメなんです。どうしても、この小説の、この場面は「朝里」でなくてはならない。その「朝里」をなんなくポーンと持ってくる桐野夏生のセンス。この人はただものではありません。
(今でこそ、小樽に長く住んで慣れたからなんとも感じないけれど、昔、初めて朝里の海岸を見た時は、そのあまりの寒々しさに、子どもだった私は「ほんとにここで泳ぐの…」とびびりましたからね。『柔らかな頬』を読んでいて、久しぶりにあの昔の感覚を思い出しました。)
 
 
 『柔らかな頬』は、発表当時(1999年)、ミステリー作品なのに「犯人」や「謎とき」がはっきり書かれていない!ということで、ミステリー・ファンの間でちょっとした物議をかもしだした作品としても有名です。
 
 ミステリー小説なのに「事件解決」がないのですね。代わりに、小説の中で、事件はこういうことだったのではないか…という「仮説」が4つばかり提示されます。それも、登場人物の「森脇カスミ」が車の中でちょっと眠りこけた時にハッと見た夢…といったやや曖昧な形で「仮説」が提示されるわけです。
 そういう小説なので、普通のミステリー・ファンには「なんだ、これは…」という受けとめられ方をされたこともあったみたいですね。私みたいに、そんな犯罪の謎ときにこだわらない人ならば、『柔らかな頬』は人物描写が研ぎ澄まされたナイフのように鋭い作品なので、けっこう勢いで一気に読めるのですけれど。(作品中、「石山洋平」という東京のデザイナーが出てくるのですけど、この人が物語の中でどんどん身を持ち崩して変貌して様って、もの凄いですよ。ドストエフスキーの小説みたいな迫力。)
 
 『柔らかな頬』を読んだ時は、まだ『OUT』の方は読んでいなかったので、こういう凝った小説構成を使うのは、なにか、桐野夏生が才気走っているからなのかなぁと思っていました。頭がいいから結末アイデアがいくらでも溢れてきた結果、こういうてんこ盛りのミステリー小説になったんだろう…とか。
 でも、ちがった。『OUT』を読むと、『柔らかな頬』が、いかに『OUT』で開眼した小説技法を桐野夏生が即座にレベルアップして行った作品なのかがよくわかります。『柔らかな頬』は『OUT』の発展的形態なのです。
 
 同じ「視点」をとり替えて緊迫感を高めて行く手法は変わりません。ただ、爆発力が桁ちがいにちがうというか。
 例えて言えば、『OUT』はミラーボールのような作品でした。くるくる回転するにつれて、ボールに貼りついている様々な鏡の破片が光を返します。そういう光の渦が集まって、私たちに『OUT』という一個の物語(ミラーボール)を見せていたのです。
 対して『柔らかな頬』は、同じ鏡を使ったテクノロジーではありますが、光の反射方向がちがうというか。今度は内向きなのです。合わせ鏡のような状態なのですね。
 様々な鏡の破片(登場人物)が集まっていることは『OUT』と同じです。でも、『柔らかな頬』は、それらの破片たちの間に、とりわけ大きな2枚の破片が突き刺さっている。それが「森脇カスミ」と、もう余命幾ばくもない刑事の「内海純一」という2枚。この、まったく最初は接点のなかった2枚の鏡が急接近してくるにつれて、事件は意外な輝きを見せはじめるのです。
 オート・フォーカスのカメラが、この原理を応用して写真の焦点を決めるみたいですが、『柔らかな頬』の場合は明らかにこの手法を意識しているでしょう。森脇カスミと内海純一の見る夢は、夢を見る度にじりじりと「犯人」の、「消えた娘」の姿形をしだいに露(あらわ)にさせて行くのです。
 この、徐々に焦点が合って行く過程、つまり、森脇カスミと内海純一の「朝里海岸」から始まるロード・ムービーは、なにか、言いようのない、現代に生きていることの辛さを体現しているような気がして、何度読んでも切なくなってきます。私には大事な一冊です。
 
 
 桐野夏生のような大御所を前にして生意気な物言いかもしれませんが、「長けてきたなぁ…」というのが正直な私の感想です。いくつかのシンプルな素材があれば、それを、ミラーボールのようにも、オート・フォーカスのようにも使える。今後、さらなる応用・発展テクニックが披露される可能性も充分にあり、一読者としては楽しみでいっぱいです。