一握の砂
《小樽の街を歩こう 第10回/短大図書館だより 2001年12月号》
 
 
 今から95年も前の明治40年12月12日、雪降る小樽・稲穂町の一角である事件が起こります。それは、小樽日報社という新聞社の社屋で起きた小さなトラブル。無断欠勤していた記者が夕方社に出てきました。そこにいた事務長が見とがめ、社員と口論になり、激怒した事務長がその社員の記者を殴ってしまったというわけです。殴ったのは小林寅吉事務長。殴られた社員の名は石川啄木と言います。
 
  殴らむといふに
  殴れとつめよせし
  昔の我のいとほしきかな
 
 おそらく、小林寅吉氏にとっては、彼の長い人生の中でのとるに足らぬ一コマに過ぎない思い出だったでしょう。そういえば、そんな社員も昔いたなぁ…というような。
 しかし、石川啄木にとっては、これは大事件でした。生活の新規蒔き直しをはかって、家族を伴って北海道に渡ってきたのが同明治40年の5月。函館に四ヶ月、札幌に二週間。そして9月、小樽日報社という創業したばかりの新聞社に職が決まり、ようやく勇んで小樽・花園町に引っ越してきたのでした。この事件が起きたのは、それからわずか三月も経っていない12月12日の夜のことです。
 
 この事件によって、啄木は小樽日報社を退社することを決意。翌年明治41年の1月には、家族を小樽に残して、釧路の釧路新聞社へ単身赴任して行きます。そして、この頃を境に、啄木の「北海道」プランは行き詰まりを見せ始め、同年4月には、ついに釧路新聞社も辞めて、逃げ帰るように上京してしまうのです。
 順調に行くかと思われた北海道移住の夢は、こうやって終わりを告げました。わずか一年だった「北海道」プラン… そんな「敗戦」の転回点になったのが、この小樽の事件です。もし、この事件がなかったなら、あるいは、啄木は小樽や札幌にとどまって、地位も名誉もそこそこの、ありがちな北海道文化人になっていたかもしれない…と思うのはなかなか楽しい想像です。まあ、そうならないところが啄木の啄木たる由縁なのですけれど。
 
  ゆるぎ出づる汽車の窓より
  人先に顔を引きしも
  負けざらむため
 
 95年も前の、市井のささやかな事件ですから、今となってはどちらが悪かったのか…というようなことは探りようもない。きっかけは啄木の無断欠勤なのだろうけれど、それは物の弾みであって、おそらく本当の理由は背後にいろいろと溜まっていたものがあったのでしょう。
 ただ、何と言うのでしょうか、この小樽の事件には、石川啄木の短い人生の節目節目で現れる基本パターンのようなものが感じられます。いつもこうやって壊れてしまう…といったような、啄木独特の人生パターンです。
 当時の啄木は、結婚し妻子を養っていたとはいえ、基本的には若干22歳の若造でした。自らの文才に異常な自信を持ち、言葉で人や世の中を動かせると本気で思っていたような節がある。(まあ、それもしかたないと思わせるくらいの才能ではあるのですが…) とりようによっては、かなり生意気な人間に映ったであろうことは想像に難くない。(そして小林事務長はそうとった…)
 啄木にしてみれば、たぶん、田舎町のレベルの低さにうんざり…といったところでしょうか。文字どおりの「うたふことなき」小樽の人々です。甘く見ていたのかもしれない。自分の担当の三面記事欄はもとより、文芸欄や新刊紹介欄、社内の人事にまで調子にのって(文才にまかせて)出しゃばっていれば、いずれ内部で反発が起こってくるのも時間の問題だったのでしょう。
 一流の歌人かなにか知らないが、所詮、東京で食いつめて、ここまで流れて来たような奴じゃないか…、小樽の街を愛しているわけでもない、小樽日報社の繁栄を願っているわけでもない、願っているのは自分の名声だけだろうが!といった、ぶすぶすした社内の反感が聞こえてくるような気がします。
 しかし、経営が上手く行かなくてイライラしている気持ちはわかりますが、それをいちいち社員のせいにしたら、もう経営者としては終わりじゃないか…とも思いますね。ましてや、社員を殴るなんて。こういう反応がなんとも小樽っぽい。札幌でも釧路でもこんな反応はしないと思います。(事実、ないのだが) たぶん、啄木というタレントが全然わかっていなかったのでしょう。わからないくせにカッコつけて雇うところが、じつに小樽。どちらも、けっこう、やってることが子どもっぽいんですね。
 
  さいはての駅に下り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみ入りにき
 
 早々に啄木は釧路に去ってしまいます。釧路時代の啄木というのも興味深い。ここでの啄木は、小樽と180度ちがって「敏腕記者」、釧路新聞の「事実上の編集長」なのですから驚きです。やっていることは小樽と同じなのに、このちがい方はいったいどうしたことなのでしょう。
 
 函館〜小樽の啄木は素(す)の状態の石川啄木だったと感じます。ナチュラルに、持って生まれた才能だけを使って生きている啄木。でも、釧路は、それに較べれば、いくぶん生活者としての知恵を身につけた「作った」啄木という印象が強い。
 小樽の経験からしっかり学んだのでしょうか、もう、職場でガキじみたドタバタをしでかすこともなく仕事に没頭しています。職場も、また、普通の大人たち。小林事務長は、もう、ここにはいないのです。普通の(今の私たち現代人がやっているのと同じ)サラリーマン生活をこなしているわけですから、私たちと同じようにストレスが溜まる。酒を覚え、花柳界に出入りすることを覚え、すっかり一端の田舎名士です。
 こんなことをやっていると、どうなるか?
いちばんよく知っていたのは啄木自身でしょう。啄木の中の「天才」がどんどん死んで行くことを。暮らしぶりのよかった釧路を早々に出て(けれど妻子は北海道に残したまま…)、4月、東京での文筆生活に突っ込んで行く啄木の姿には、なにか、自分にはこれしかない!とわかった人間の悲しみのようなものが感じられます。多少世渡りが上手くなったところでどうしようもない…啄木が啄木であるためにはこの選択しかなかったのでしょう。
 
  かなしきは小樽の町よ
  歌ふことなき人人の
  声の荒さよ
 
 『一握の砂』中、北海道放浪をうたった章は「忘れがたき人人」という章なのですが、何度読み返しても、この章のピークはこの歌ではないかと感じざるをえません。もっと言えば、この「小樽」こそが『一握の砂』という啄木劇場のハイライトであるかもしれないとさえ思っています。この、ナイフのような切れ味鋭い観察眼をなんと言えばいいのでしょうか。
 
 「小樽」は不思議な街ですね。
啄木を殴る…なんて、およそ、文学などとは程遠いようなことをやっておいて、でも、啄木文学の核心を見事にひらき出させたのは、こんな、「うたふことなき」人々であり、「うたふことなき」街だったのだから。おそらく、ここを通らなかったら、石川啄木という文学は成立しなかったのではないでしょうか。
 

(水天宮境内)
 
 その啄木が生きていた明治40年の冬をまざまざと再現してくれるのが、5頁でも紹介している「小樽啄木会」のホームページです。収中の「明治40年・啄木と小樽」から多くのものを学ばせていただきました。
 また、テキストには岩波文庫『新編啄木歌集』(久保田正文編)を使っていますが、歌の理解には、岩城之徳著『流離の詩人石川啄木』(学燈社,1973年刊)が便利です。実際の『一握の砂』は歌がざーっと並んでいるだけの本なので年代的な足どりがつかみにくい。その点、『流離の詩人石川啄木』は、年譜的な記述とその時代の代表的な短歌作品を交互に並べてありますので、歌の理解度がかなりちがいます。初心者は、最初にこちらを読んでから、全短歌が収録されているテキストに入った方が良いと思われます。
 右は、岩手県渋民村の『石川啄木記念館』ホームページの「啄木歌ごよみ・12月」です。ここから、今回の文章のアイデアをいただきました。このホームページも良くできた美しいホームページです。「小樽啄木会」のリンク集から入れますので、ぜひ一度見に行ってみてください。
 
 12月。小樽に住んでいた啄木も、こんな冬景色を見ながら花園町や稲穂町を歩いていたのでしょうか。せっかく小樽にいるのですから、ぜひ、この時期こそ、啄木の暮らしていた雪の道筋をまわってみてください。