はるか、ノスタルジィ
《小樽の街を歩こうG/短大図書館だより No.45(2000.4.1)》
 
 
 映画『はるか、ノスタルジィ』には、前回紹介した『ラヴレタ−』より五年前の「1991年の小樽」の姿が映し出されています。描かれている季節はちょうど今頃、小説によると、
 
 外は風が強かったが、冷たくはなかった。なんといっても、もう春なのである。たしかに天狗山の頂上近くとか、祝津の方の山並みの上の方には、わずかばかりではあるが残雪あった。
 
頃のお話です。
 
 「じつはぼくも、あなたぐらいのときに、三月ほど小樽に住んでいたんです。わずか三か月ですし、かれこれ三十年もたっていますから、まったく知らない町も同然なんです。それで、できることなら、あなたにガイドをお願いしようかと思って………。」
 
というわけで、16歳の主人公「江波はるか」は旅のトラベル・ジャ−ナリストの「綾瀬慎介」に1991年春の小樽を案内することになる。46歳の綾瀬慎介の胸中に去来する三十年前の小樽の町の出来事、16歳の高校生だった綾瀬の失われた時を求めて、この物語は動き出します。
 
 
 物語の構造が「東京から来た人を地元の人間が案内する」という構造になっていますから、『ラヴレタ−』の場合のイメ−ジ処理的な「小樽」とはちがって、こちらはビシバシと実在の「小樽」が登場します。
 映画版の大林宣彦監督はドラマ展開の関係上からなのか、いくぶん「小樽」地図をデフォルメして描いていますが、小説版の方は、なんといっても「小樽市稲穂町西五の三で生まれた」作家の山中恒ですからね、まちがえるわけがありません。小樽市内を小説の主人公たちが動きまわるスピ−ドと、小説の語り口のスピ−ドが見事にピタ−ッと同じなのです。
 例えば、はるかが綾瀬の泊まっている町中のホテルまで迎えに行く…といったなんでもない描写。はるかの家は富岡ですから、家を出て、小樽駅の跨線橋を越えて、都通りを抜けて…という道筋にかかる時間、あるいは、ホテルから車で朝里川温泉の北海道ワインまで行った…という場合の時間、そういう歩いたり車を使ったりする時間の流れのちがいを、小説の語り口のスピ−ドが見事にそれについて行ってるのです。
 読者は「こんなこと、あたりまえだろう」と思うかもしれませんけれど、なかなか、できそうでできないことなんですよ、これ。よほど小樽の町を脚で実際に歩きまわって、さらに、プラス筆力、イメ−ジの上でも何度も何度も小樽の町を歩きまわらないとできない技だと思います。
 
 山中恒の「小樽」への把握の深さを感じます。口では、小樽のことなら何でも知ってるとか、小樽の町を愛しているとか声高に言う人は多いけれど、山中恒のこういう素晴らしい芸を見た後では、なんとなくそんな人たちの言葉も軽く感じてしまいます。本当に強い人は黙っている…という見本のような事例でした。
 
 映画版の方は、大林監督を筆頭に・俳優・音楽・カメラマンなど当代の実力者が集まりすぎていて、観ている方には少しばかりハ−ドな感じがしました。
 例えば、音楽は久石譲ですが、CDでサントラ盤を買ってきて聴いている分には文句なく心地よいのに、映画で観ていると、小樽(日本海)の風景とかさなって、映画の印象がひどく重たくなってしまうように私は感じました。こういう音楽は尾道(瀬戸内)のやわらかな光の中で流れていた方がいいような気がします。
 同じようなことが、カメラ・ワ−クに興味がある人にはその画面について、俳優に興味がある人には、その俳優の演技について起こっているのではないでしょうか。
 
 映画版が「一部上場」の大企業だとしたら、小説の方は、品の良い「個人商店」のような趣がありますね。本の中でふんだんに使われている白黒写真の「小樽」がとても美しい。
 山中恒の小説は独特の気むずかしさみたいなものがありますけれど、一度その性格に惚れ込んでしまったら、書いたもの全部を読んでみたくなるほどの魅力をもった世界です。そういう意味では、『はるか、ノスタルジィ』をいちばん先に読むよりも、文庫の『ぼくがぼくであること』とか『おれがあいつで、あいつがおれで』(映画『転校生』の原作)を先に読んだ方がいいかもしれません。
 
 
■『はるか、ノスタルジィ』(山中恒[著])…………913.6-Ya
■レ−ザ−ディスク『はるか、ノスタルジィ』………LD91-Ob