Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
あの道 この道
 
北海道新聞社編
(昭和48年10月12日〜11月18日連載)
 


 
 

 落ち着いた家並み、情緒あふれたふん囲気−古き良き街・小樽も時の流れの中で大きく姿を変えようとしている。開拓のころ、にぎわった通りや小路の変容ぶりも著しい。市内のアマチュア画家に昔懐かしい“あの道この道”をスケッチしてもらった。
 

 
第1回/地獄坂

 産業会館から小樽署を経て、浅草寺にぶつかる道路を通称地獄坂という。一部が道道小樽−仁木線に含まれているので、交通量も多い。とりわけ国鉄函館本線の渡線橋から国道5号線にかけては急坂。冬はドライバー泣かせの難所でもある。
 名前の由来が面白い。坂に沿って建っているのが、小樽署、法務局、札幌地検小樽支部、小樽税務署など、庶民が敬遠しがちなお役所ばかり。そして突き当たりがお寺となれば、地獄坂の名前もうなずけるというものだ。
 こんな話を市の市史編さん室で聞いた。「戦前のこと。税務署近くに有名な高利貸しが住んでいた。金の取り立てはモーレツで、それこそ地獄の責め。いつしか、市民はこの付近を地獄坂と呼ぶようになった」。
 これは地獄坂を通って三十五年間、小樽署最古参の西谷清さん(五五)の話。「昔は馬車が多くてね。冬場になると、よほど馬力をつけなけれほ坂は登れない。馬の吐く真っ白な息が、今でも印象に残っている。馬にすれば、地獄の苦しみだったんでしょうね」。
 馬が車に変わってからは地獄坂も大きく変容した。今ではお役所に交じって人家が密集、昔の面影も次第に薄れてきている。
(絵:嶋田康人さん/「蟻族」会員)
 

 
第2回/梁川通り

 小樽駅前から中央通りを港ヘ一丁下がった交差点。東から延びて来た都通りのアーケード街がここで途切れ、西に向かって梁川通りが続く。近代的なショッピング街へど変身した都通りに比べると、やはり人影は少ない。しかし、そこはアーケード街とは違った下町のおおらかさが漂う。古き良き小樽をしのばせる庶民の街だ。
 「梁川」という名には由緒がある。その昔、この一帯は五陵郭の戦いに敗れた榎本武揚の私有地。武掲の雅号「梁川(りょうせん)」にちなんで名付けられた。通りから少しはずれた角江産婦人科の建っているところが武揚の陣屋があった所といわれている。
 今でこそ都通りなどの商店街に、一歩譲っているが、大正から昭和にかけては小樽で最もにぎわったところ。「大正のころはそりゃあ繁盛したそうです。小樽で初めて舗装した通りだしスズラン灯ってここが初めて」。街の“物知り博士”の印舗経営、松田実さん(五一)はこう胸を張る。
 ボウリング場、全国チェーンの紳士服専門店…。下町情緒の古い街にも“新しい顔”がのぞき始めた。アーケードの建設も計画され、時代の波はこの街にも確実に押し寄せている。
(絵:加藤光彦さん/「グループからす」会員)
 

 
第3回/船見坂

 船見坂を登りつめたところにある旅館のおかみ、江口てい子さん(五八)―。敗戦のどさくさがまだ収まらないころ、元料亭の別館を買い受けて今ののれんを掲げた。主婦の座を暖めているだけではあき足らず、故郷の函館から一人で小樽へ。思い切った再出発から、もう三十年近くになる。
 坂にも男女の性があり、緩やかな女坂に比べて険しいのを男坂という。ここはさしずめ女にはつらい男坂。
 「慣れないうちは上り、下りがそれは大変。お客さんのための買い物などで一日に何度もてしょ」。女手ひとつの切り回し。険しさはひとしおだったよう。「まあ、いろんなことがありましたね。おかげで世の中も何かとわかってきました」。“坂道”を上り切った余裕から来る言葉の重み。
 先年の国鉄の電化に合わせて陸橋がかさ上げされ、船見坂はさらに男牲的になった。そのままジャンプ台に使えそうで、雪が積もるとタクシーに敬遠される。それでも昔と変わらない石がきと港の見晴らし。すり減った舗装の上できょうも、庶民の喜びと悲しみが書きつづられていく。
(絵:徳吉和男さん/「蟻族」会員)
 

 
第4回/商大通り

 花園小公園から国鉄函館本線のガードをくぐり抜けると、商大まで通じる長い坂道が続く。校門まで二キロ近くの道のり。これが商大通りだ。
 こう呼ばれるようになったのはもちろん戦後。それ以前は商大の前身・小樽高商からとって「高商通り]と呼ばれた。また、こう配が急な上の方は「地獄坂」の愛称でも親しまれている。
 「地獄坂」の名は大正三年(一九一四年)卒業の高商第一期生らがつけたという。大半が本州出身者だっただけに、民家が途切れて寒々としたこの胸つき八丁の坂を、遅刻しまいと必死に駆け登った経験が、よほどこたえたに違いない。
 だが、今では商業高から商大までの数百メートルは桜、シラカバ、アカシアなどの並木がにぎやか。春は楼のアーチが新入生を歓迎して<れるし、秋は秋で山の色づきを競う紅葉が美しい。
 上の学園街とは対照的に、バス停の「商大通り」から下には商店が並ぶ。こぢんまりした地味な山の手風の商店街だが、昔は妙見川河畔の花街への通い道でもあった。バンカラ学生と“地獄”から“極楽”へ橋渡ししたいきな通りともいえそうだ。
(絵:中村訓敬さん/一聖会会員)
 

 
第5回/日蓄小路

 “港、港に女あり”―。日蓄小路といえばかつて船乗り仲間の口づてに、その名を全国的に知られた特飲街。大正の中ごろ、駅前通りと第一大通りの交差点今の中島電気の一角に日本蓄音機小樽出張所があったところから、ハイカラ好みの住民が付近の裏小路一帯をこう呼んだ。
 「私がもの心ついた朋治の末ごろにはまだ日蓄の所に人力車屋がありましてね。駅や港から乗り降りするお客さんを乗せてベルをリンリン鳴らして走り回っていました。そりゃあ成勢が良くて、付近の人は“リンリン小路”といっていたものですよ」。日蓄小路と背中合わせの稲穂二丁目に生まれた小樽軽飲食店組合長の竹田賢造さん(六五)は当時の下町情緒をこう懐かしむ。
 大正から昭和にかけていつの間にか特飲店が立ち並び、太平洋戦争の直前には狭い小路に四十軒ほどがぎっしり軒をつらね、南郭、北郭にしたものだった。戦後の売春防止法ととともに紅灯は消えたが、日蓄小路の名前は残った。
 何回かの火事で小路はほとんど建て替わったが、今もバーやスナック、ダンスホール、一杯飲み屋が立ち並ぶ歓楽街。“日蓄”の名には、昔も今も、庶民の哀歓がこめられている。
(絵:三浦正一さん/青
会会員)
 

 
第6回/仲見世通り

 「そりゃあ、昔は大変なにぎわいでしたよ」―明治四十年(一九〇七年)から父子二代、
印刷業を営んできた稲川盛一さん(七七)=稲穂二ノ一三=は、こう懐かしむ。
 電気館前から第一大通りまで。五十メートル足らずの小路に、浅草の仲見世を模した名がついたのは、明治末期という。明治四十年ごろ、当時、市内最大の繁華街だった公園通りの向こうを張って、榎本武揚が二階建ての勧工場を建てたといわれる。いまでいう寄り合いデパートだが、雑多な業者がコマを並べ、客でごった返した。この勧工場も数年前、付近からのもらい火で灰となり、その後、立ち並んだ商店街に、この名がついた。
 それからも火災、戦時中の強制疎開など変転を操り返し、現在の姿になったのは戦後。終戦直後にバラックの飲食店街が並び、カストリに群がる左党のたまり場だった。今もささやかな飲食街だが、その中の一つ、土なべうどんの「手織」は昨年までは天ぷら店で、八田尚之が生前、愛した店。「ふるさとの詩」の取材で来樽した三十八年、約一カ月の滞在中、毎日、顔を出すほどのほれ込みようだった。昔のにぎわいを忘れた仲見世通りが、このあと、どう変わるやら。
(絵:富樫苑さん/青
会会員)
 

 
第7回/千秋通り

 古い家並みが続く小樽の街の中で、この千秋通りは“昭和っ子”雑穀相場でしこたまもうけ、“小豆将軍”と呼ばれた高橋直治の二世・康世が、.昭和の初めに土地管理事務所の千秋閣を建てたのが開発の始まり。今はやりのニュータウンづくりの草分けだ。
 「そりゃもう草ぼうぼうでひどいものでした。道路といえば天狗山に向かう細道があるだけ。そのころの最上は市民から“山奥”と呼ばれていたもんです」―ここにマイホームを建てた神山義一郎さん(六九)=最上一ノ二五=は半世紀前をこう回想する。
 第二次大戦の直前、工業高校が出来るころから、通りは変身する。道路の両側には続々とハイカラな住宅が建ち並び、当時の新聞は「千秋閣は白亜の洋館、小樽の建築はこの地から新しい時代を迎える」ともてはやした。
 戦後は公営住宅や学校が急増、毎朝、子供たちの元気な声が通りにあふれる。天狗山スキー場の施設も整い、舗装もぐんと延びた。最上の移り変わりを見つめてきた千秋閣=現商大学長宅=はもう老境。シラカバの立木が美しい前庭には、かつてのハイソサエティーのにおいが今も漂っている。
(絵:川田現清さん/小樽水彩画会会員)
 

 
第8回/貝殻小路

 “けっから小路”―。塩谷一丁目、暁了寺の前から浜中川に沿って吉原通りに抜ける細い小道を、土地のお年寄りたちはこう呼んでいる。その昔、この辺り一帯は湿地帯。ホタテの貝殻を埋め立てて道路を造ったところから、“貝毅小路”と名付けられ、それがなまって“けっから”になった。
 「そうよなあ。わしが物心ついたころにはそう呼んでいた。そのころは塩谷の海で埋め立てに使えるほどホタテ貝が獲れた。今ではかけら一つも見られんよ」。塩谷の浜で民宿を経営する熊谷善三郎さん(七四)は往時をしのんで、ウソみたいな話だと笑う。
 明治から大正にかけてはこの浜もニシン漁が全盛。貝殻小路一帯を吉原町と呼ぶのも、湿地でヨシが多かったというより、付近に立ち並ぶ料理屋や芸者置き屋、遊郭から東京の吉原にあやかったというのが本当らしい。親方衆の寄進で、東本願寺函館別院から暁了寺を移したのは明治十一年(一八七八年)。お寺参りのために貝殻小路が造られたのかもしれない。
 「住む人はすっかり変わったが、川の流れや小路は昔のまま」というのは暁了寺のおばあちゃん、楳渓(うめたに)ミツさん(八〇)。当時、川沿いに植えられた数本のヤチダモが今も残っている。
(絵:坂美保子さん/■の会会員)
 

 
第9回/都通り

都通りには新旧二つの顔がある。一つはオールドファンに懐かしいジンタの思い出、もう一つは近代的商店街のシンボル・アーケード街だ。
 小樽に活動常設館、電気館が開館したのは大正三年(一九一四年)七月。“文明開化”の申し子の活動写真の登場は小樽っ子にとってまさしく“事件”だった。「電気館は最近の建築にして規模広大、最高楼に上がれば展望広闊(かつ)、眼下に往来する市人、あたかも蟻(ぎ)群を見るがごとし」。稲穂小の六代目校長、稲垣益穂は当時の日記にこう記している。
 そのころの小樽は港の全盛期。街には外国船員や樺太帰りの出かせぎ労務者があふれ、人波は電気館付近の盛り場に集まった。大正十年に結成された商店街は、電気館にあやかって“稲電会”と名付けた。
 対岸貿易を失った戦後は、都通りも苦難の連続。テレビ時代の到来で、映画の神通力も薄れた。変わって登場したのがアーケード。
 「たしかに当たりましたね。ここ数年は売り上けが急噌、店舗の増改築も目覚ましい」と語るのは都通り商店街振興組合専務の梶正雄さん(五〇)。新しい主役に“都通り復興”の夢を託している。
(絵:升田
泄子さん/■の会会員)
 

 
第10回/桃太郎団子坂

 “珍名”が多い小樽の道の中で、とりわけしゃれているのがこの桃太郎団子坂。でも、花園青葉ヶ丘から小樽公園に抜ける小路が、かつて桃太郎団子坂と呼ばれたことを知っている人は、めっきり少なくなった。今ではタクシーの運転手でさえ、この名前には首をひねる。
 この坂の中間に、もう六十年以上も住んでいる青木一雄さん(六七)=花園五ノ五=は、“珍名”の由来をこう説明した。「いつのころからかはっきりしないが、確か戦前までは坂の頂上、小樽公園内にきび団子を売る茶屋があった。私も小学生のころはよく通ったものです」。そのころは今と違って人通りが多く、「公園で行事がある時は大変な人出だった」そう。
 現在の
園中の敷地には戦前まで庁立小樽高女があった。ここの生徒が、桃太郎団子の大のお得意さん。「お昼休みや下校時には必ず店に寄ったものです」と、懐かしそうに回想するのは同校のある卒業生(五〇)。冬の体育の時間には、この坂が格好のスキー、そりの“練習コース”にもなった。こんなエピソードを秘めた団子坂の名も、時の流れとともに、今、遠い過去に消え去ろうとしている。
(絵:梶原秀子さん)
 

 
第11回/引っ越し通り

 細く曲がりくねった坂道の両側に黒ずんだ軒とちっぽけな玄関が続く。つけ物用に干すダイコンの列、植木ばち、人目をうかがう野良ネコ―こんな庶民臭の漂う中を、かっぽう着姿のカミさん連中の浜言葉が行き交う。
 「引っ越し通り?さあ、知らんね。引っ越し町ならあるけど」―こんな返事に何度もぶつかった。かつてニシン漁華やかだった高島は稲荷神社を囲む稲荷町から栄えた。明治のころは現在のバス通りまで浜だったため、あふれた人々は奥へ引っ越して新しい町を作った。これが引っ越し町の起源。
 通りをはさんで発達したこの町の住民は大半が漁師。春には東北から来る出かせぎも加わって大変なにぎわいをみせたという。今でも、通りにどっしりしたたたずまいを見せる網元の屋敷が往時をしのばせている。
 土地っ子だというある老人(八一)は「浜にはニシン船と底引き船が百隻余りも並んでいたもんです。網元の家には出かせぎの若い漁師が三、四十人も泊まり込んで、この通りも活気がありましたねエ」―。
 今もこの町の三分の一が漁業関係で生計を立てている。通りは寂しくなったが、行き交う浜言葉には力強さが残っていた。
(絵:斎藤俊子さん/創美研究所)
 

 
第12回/嵐山通り

 市立図書館を真っすぐ海へ。国道5号線をよぎり、買い物客でにぎわう第一大通りの花園銀座街まで。五百メートル足らずの狭い道が嵐山通り。いま札幌地裁小樽支部が占める嵐山が、市民の憩いの場だったころ、そこへ通じる道として、こんなみやびな名が付いた。
 この通り、国道をへだてて、がらり趣を変えるのは今も昔も同じ。山の手は、大正初期、世界の雑穀相場を動かし“小豆将軍”の名をほしいままにした高橋直治の実弟の広壮な邸宅をはじめ、板谷代議士邸など大物の屋敷街だった。高橋一族の屋敷跡は、日本郵船社宅に変わっているが、朝里海岸から運んだ直径十センチもある玉石の土止めはビクともしない。この筋向かいで工事中の市職員会館裏手には、幕末の動乱期、沖田総司と並ぶ剣客と恐れられた新撰組副長助動、永倉新八が名を変え、ひっそり暮らしていたという。
 国道下手は飲食店、商店が軒を並べる昔変わらぬ下町風景。それでも、芸者姿でにぎわった以前の料亭街から、マッチ箱のような飲み屋、バーがひさしをすり合う飲食店街とムードは全く異質。かつて格式を誇った「松島家」は家具店の倉庫に変わっている。
(絵:岩田むつ
さん/「蜂の巣」会員)
 

 
第13回/稲荷小路

 国鉄函館本線の高架線が走る花園第一大通り。高架線を西に下ると、稲荷小路が顔をのぞかせる。こぢんまりとした小路。十五メートルも歩けば、もう行き止まりだ。手宮線の鉄路を背に「第四分団第一班機具置場」と書かれた消防団の小屋が寂しげに立つ。飲食店の灯が輝く夜と違って、昼の小路は人影もまばら。小屋の前にあった稲荷神社も今はない。
 お稲荷さんをこの小路に持って来たのは、質屋を営む
(かせ)野栄次郎さん(六九)の先代、喜太郎さん(故人)。昭和七年ごろ、栄町の旅館の庭にあったのを買い取って移したという。当時は民家が立ち並ぶ下町。いつしか、お盆の八月に祭りが行われるようになった。
 「そうですね。夜店は出ませんでしたが、近所の人が集まって、盆踊りなんかで楽しんだものですよ」。
野さんは当時をこう懐かしむ。
 終戦後、飲み屋が店を開き始めた。下町情緒は次第に失われていく。それでもお祭りは三十七年ごろまで受け継がれた。佐藤十五郎さんという昔かたぎの飲食店主が熱心に動き回り、どうにか続けていた。その祭りも佐藤さんの死とともに終わる。数年後、神社もどこかへ運び去られてしまった。
(絵:中沢嘉男さん/小樽家並みを描く会会員)
 

 
第14回/静屋通り

 六十六年前、公園通りの間借り住まいから静屋通りに通う一人の青年がいた。着流しの風さいは上がらないが、目は理想を追って輝いている。時折、同僚と激しい口論を交わしながら通り過ぎることもあった。話題は決まって中央文壇の動きか、職場の上役に対する批判であった。
 この小柄な若者は、新聞記者だった石川啄木。出入りする新築の二階建ての玄関には、小樽日報社の看板が掛かっていた。編集室の窓から炊み屋の赤ちょうちんが雪にかすむのを見るにつけ、生活の不安はのしかかるばかり。東京から遠く離れたあせりの日々…。
 二十三歳の詩人が日報の創刊を機に札幌から小樽へ移ってきたのは、明治四十年(一九〇七)十月のこと。三面担当で、野口雨情とも机を並べた。上司と意見が合わず一カ月ほどで退社し翌年一月に釧路へ去るが、後につかの間の小樽時代を「かの年のかの新聞の初雪の記事を書きしは我なりしかな」と歌っている。
 道路名の由来は、界わいの地主だった道長官の北垣国道の号・静屋(せいおく)から。「裏通りだが啄木ファンには見過ごせない」と小樽啄木会会長の越崎宗一さん(七二)。本間内科医院の敷地が日報社跡で、街並みは昔のふん囲気を残している。
(絵:山田真由美さん/彩夏会会員)
 

 
第15回/手宮タヌキ小路

 かつてエゾのなにわといわれた小樽。その繁栄の糸口となったのは明治十三年(一八八〇年)十一月の手宮―札幌間の幌内鉄道開通だった。このとき小樽と鉄道争奪戦を演じたのが室蘭。新幹線誘致の“明治版”といったところだ。
 鉄道景気で一躍、ブームタウンにのし上がったのが手宮かいわい。移住者がどっと流れ込んで街は大変なにぎわい。開拓地につきものの特飲街が軒を並べた。港に集まってくるのはヤン衆や沖仲仕など血気盛んな若者ばかり。女っ気なしでは士気にも響こうというもの。「開拓初期には遊郭や特飲店は労務対策上も必要だったんですね」と語るのは市立博物館長の能島正一さん(七〇)。全盛期にはわずか六十間(百十メートル)ほどの狭い小路に四、五十軒もの店が軒を連ねたという。
 手宮とともに歩んできたこのタヌキ小路も、戦後の売春防止法とともに紅灯は消えた。夜ごと出没したタヌキのうわさも今は遠い昔話。近くには三階建てのマンションも登場。開拓当時の活気とけん騒に代わって、庶民の静かな暮らしの息づかいだけが聞こえている。
(絵:松本公子さん/彩夏会会員)
 

 
第16回/観音坂

 ぶどう畑に囲まれたダラダラ坂を登っていくと、一人の老女に出会った。「ここですか観音坂は?」―「うんそうだ。でも道がぬかっているから長ぐつはいてなけれはダメだべさ」。間もなく頂上。蘭島海岸から積丹岬の海岸線が、秋の日差しにきらきら輝く。そこに二つの名もない観音さまがあった。
 観音坂。忍路湾からポロマイ崎の付け根の部分を通って蘭島に抜ける近道を、人々はこう呼んだ。「そう、峠のてっぺんにある観音さまは、私が生まれる前からあったべか」と、ずっと忍路に住む阿部キセさん(七二)は頭をひねる。国道が開通する前は忍路から蘭島に通ずる唯一の通路。「学校に通う子供たち、汽車に乗る人たちで、それはにぎやかだった」。
 そんな観音坂も、今では人影はなく、たまに畑に通うトラクターが通るだけ。晩秋の落葉が一面に積もっている。それでも「年寄りは観音さまを忘れない。春と秋には、今でもみんなお参りに行くんだ」と阿部さん。
 高さ一メートルほどの観音さまは、小さなお堂におさまっている。数日前にさしたと思われる菊の一輪ざし。柔和な顔つきが、周囲の静寂さにぴったりマッチしていた。
(絵:山崎清さん/「蜂の巣」会員)
 

 
第17回/中央通り

 転勤か旅行で小樽駅に降り立った人ならだれしも、港に向かって続く一本の道を思い思いの感傷を込めて見渡すのではないだろうか。中央通りという名のこの駅前通り、ビルの林立した華やかさはない。遠くに港を望みながら商店の低い家並みが連なる。そこに近代化の遅れを見るか、それとも小樽の良さを見るか、人によっておのずから違いがあろう。
 駅前に住む内海宗作さん(八三)=稲穂二ノ二一=はこの通りとともに生きて来た古老。明治四十年(一九〇七年)、秋田から移り住んだ。「その時、私は十六歳でした。父親が小樽で一旗揚げようとしたのです。はっきり覚えていませんが、そのころではないてしょうか。中央通りと呼ばれるようになったのは。家はポツポツと建っている程度で、函館大火の被害者が多かったようです」。
 内海さんは移住のあと、駅夫となる。その後この通りを離れたのは、東京で働いた大正初めの七年間だけ。小樽の良さが忘れられず舞い戻った。それから五十年余り―。「今も昔もほとんど変わりません。もっともこれからは違うでしょうが」。小樽の“新しい顔”をつくる駅前再開発事業は今、たけなわだ。
(絵:工藤初江さん/「グループからす」会員)
 

 
第18回/浮世通り

 花園第一大通りから国道5号線までのざっと二百メートル。それほど広くもない小路の両側に、飲食店がひしめき合って演歌のムードを漂わせている。
 確かに多い―。通りすがりに数えてみると八十六軒もあった。病院、商店、マンションなどか六軒ほどのほか、見事なネオンの洪水だ。軒数では最も多いスナックが三十四軒と全体の四割を占め、焼き肉を含む料理店十九、バー十四、居酒屋八、クラブ四…と続く。花園の中心街の行き帰りに立ち寄る客が多いせいか、ここでは午前零時はまだ宵の口。
 大きな構えの店はないが、もともと繁華街の周辺にあって小料理屋などを中心ににぎわってきたから。近くに芸者衆のたまり場だった見番があった関係で、戦前はきれいどころがしきりに出入りした。現在では二軒の歌声スナックはじめ洋酒党、ヤングの常連が増え、オールドファンの間から「近ごろ若者の金回りがよいのか、気軽に飲めなくなった」との声も。
 もちろん、こうした移り変わりは世の習い。それでも高物価、低所得の、“憂き世”を「どうせ浮世」と割り切る人の心のずぶとさには変わりなく、客足は絶えることがない。
(絵:斎藤俊子さん/創美研究所)
 

 
第19回/成り金通り

 「成り金」とは聞こえが悪いのか、今ではこの名前を呼ぶ人は少ない。何の変哲もないこの通りをはさんだ一帯が「成り金町」と呼ばれるようになったのは戦後間もなくという。
 わずか百メートルほどの細い通りにはかわら屋根に白壁の土蔵とがっしりした石蔵が四、五棟。ニシン漁華やかなころ、権勢を欲しいままにした網元が建てたものだという。
 成り金町一帯が、すべて網元の所有地だったというから、その栄華のほどがしのばれる。だが、昭和に入ってニシンが全くとれなくなってからは先細り。広い土地と家を手放した後には中小の船主らがが移り住んできた。没落した網元に代わって登場した新しい親方衆に、こんな名がつけられたものらしい。
 現在の呼び名は高島三丁目。高島の長い歴史からみれば、隣の“引っ越し町”とともに「新しい顔」といえそう。最近ではサラリーマンが住む新築アパートも建って変容ぶりが激しい。木造の落ち着いた家並みの間に鮮やかな原色のトタン屋根が増えるにつれて「成り金」の名も土地の人から忘れ去られようとしている。
(絵:藤田勇一さん/一聖会会員)
 

 
第20回/国際街

 「国際街って知ってる?」
「知らんな。そんなハイカラな街あったの」―知らないのも無理はない。かつて数十軒もの飲食店がひしめき、不夜城を誇ったこの街も、今はさびれる一方。人影もまばらで、往時のにぎわいがうそのようだ。
 もとはといえば国際街は敗戦の落とし子、船見通りで屋台を開いていた引き揚げ者が追い立てを食って港に近い色内の空き地に二階建てのバラックの長屋を建てたのがそもそもの始まり。夢はでっかく、国際街と名付けた。
 「そりゃもう」にぎやかなものでした。漁船員や外国船員が顔を見せて大繁盛。血気盛んな若い衆が多いので、けんかもしょっちゅう。朝になると、ガラス屋が修理に飛び回っていたもんです」。今も酒揚を経営しているSさん(五六)は懐かしそうに語る。
 この盛り場も十年ほど前からめっきり客足が減り、空き家が目立ち始めた。今残っているのは駅前通りにスナックや食堂が五、六軒。千鳥足の酔客でにぎわった小路はすっかり忘れ去られ、ラーメン屋が一軒残っているだけ。港から名物がまた一つ消え去ろうとしている。
(絵:渡辺徳次郎さん)
 

 
第21回/公園通り

 公園通りは山だった―。小樽公園から真っすぐ下がり第一大通りまでの商店街が、かつては小樽公園や水天宮などの段丘と同じ小山だったとは信じられないかもしれない。明治末期までは火山灰を崩して造った悪路に平屋が並ぶ寂しい通りだった。
 それが小樽港の伸びにつれて規模をふくらませ、市内て最大の繁華街に変わっていった。戦前までは、日暮れと共に道の両側に露店がずらり軒を連ね、夜店のひやかしが小樽っ子の楽しみの一つになっていた。大正の末に、小樽を訪れた北原白秋が「東京よりもにぎやかで、面白く…」と書いたのもここ。今は亡き伊藤整も、よく塩谷のバラを道ばたに並べ、文芸雑誌の出版資金をかせいだ。
 石川啄木の思い出も多い。今の「た志満寿し」は当時、南部せんべい屋。明治四十年(一九〇七年)十月、函館から流れてきた啄木一家が、ここの二階に間借り、小樽公園への散歩を楽しんだ。
 戦後は買い物客の流れが変わり、人波は少ない。八年前にアーケードを造ったが、効果は薄く、地元商店街は振興策に顛を痛めている。
(絵:有吉慶三さん/小樽家並みを描く会会員)
 

 
第22回/金曇通り

 日が傾いて来た。勝納川にかかる真栄橋。流れの音を耳にしながら橋を渡ると信香会館の前に出た。そこから臨港線に向かって一本の道。初冬の柔らかな日差しが家並みの長い影を落とす。その昔、金曇(こんたん)通りと呼ばれたところだ。
 この辺一帯は小樽で最も早く開けた。黄金の色もここでは曇り、色あせて見えるほど栄えたという。そこで金曇の名がついたわけだが、そのにぎわいも明治の終わりころまで。街の中心は次第に北へ移って行く。残されたのは往時の栄華の夢。通りに面した榎武次さん(六一)方=信香町五ノ七=にあった土蔵も、「小樽で一番古い建物」とよく小学生が見学に来たものだが今はない。通りの端に、ずっと住んでいる金子キヨさん(五二)=同二ノ六=は時代の変化にまゆをひそめる。「昔はここから波の音が聞こえました。今は臨港線の車の音だけなんです」。
 買い物かごを提けたおばあさんに通りで出会った。「金曇通り? よく知っている人がいるから案内してあげる」。近くの家の玄関先。現れたのはこれもおばあさん。二人の昔話が始まった。割り込むすきもない。あの道この道…。通りの思い出はこんなにも心に焼きつくものなのだろうか。(おわり)
(絵:富樫英治さん/小樽チャーチル会会員)